4.仏教の修行法
仏教の修行法については、様々な経典に説かれている。仏陀当時の修行法について、『雑阿含経』第29第10経には、「世尊は、ある時祇園精舎において弟子達に言われました、弟子達よ、人息と出息を念ずることを実修しなさい。そうすれば、身体は疲れず、眼も患(くら)まず、思いのまま楽しんで、雑念に染(そ)まないことを覚(さと)るであろう。このように入息・出息を修めるならば、大いなる果と、大いなる福利を得るであろう。さらに深く禅定に進んで、慈悲の心を得、迷いを断ち、さとりに入るであろう。」と説かれ、数息観(すそくかん)を実修することが重視されている。
インド仏教において、実際に如何なる修行法が実修されたのか、具体的に検討していくことにしたい。
インド仏教における修行法として、(1)四禅・(2)四無量心・(3)四無色定・(4)六妙門・(5)十六特勝・(6)九想・(7)八念・(8)十想・(9)八背捨・(10)八勝処・(11)十一切処・(12)九次第定などである。これらの修行法を具体的に検討していくことにしたい。
(1)四禅
四禅は、欲界の迷いを超えて、色界に生じる四段階の禅定。色界における心の静まり方が、初禅・第二禅・第三禅・第四禅と次第に深まっていく。この四禅は、仏教以前から説かれていたが、中でも第四禅は、止と観とが均等の禅定であり、悟りや神通などの智慧が得られ、最も理想的な修行法である。
- 「初禅」は、覚・観・喜・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
- 「第二禅」は、内浄・喜・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
- 「第三禅」は、捨・念・慧・楽・一心の心の状態が現れる禅定。
- 「第四禅」は、不苦不楽・捨・念・一心の心の伏態が現れる禅定。
(2)四無量心
無量の人々に対して、楽を得させ、苦を離れさせようとして、慈・悲・喜・捨の4種の心を起こし、あるいは慈・悲・喜・捨の4種の禅定に入る修行法である。
- 「慈無量心」は、他人に楽を与えようとする深い愛情をもつための禅定。
- 「悲無量心」は、他人の苦しみを抜いて同情する心をもつための禅定。
- 「喜無量心」は、他人の幸せを共に喜ぶための禅定。
- 「捨無量心」は、愛憎を超えて同じように他人に接する心をもつための禅定。
この4種の心は禅定によって得られるが、この心を修めることによって、瞋(いか)ったり、憎んだり、恨んだりする心がなくなる。
(3)四無色定
物質の繋縛(けばく)を離れ、物質を滅した無色界の修行法である。
- 「空無辺処定」は、色界の第四禅を超えて、禅定の障害となる一切の想を滅し、「空間は無限大なり」と思惟する禅定。
- 「識無辺処定」は、空無辺処を超えて、「識は無限大なり」と思惟する禅定。
- 「無所有処定」は、識無辺処を超えて、「何ものもなし」と思惟する禅定。
- 「非想非非想処定」は、無所有処を超えて得られる極めて昧劣な想のみがあり、ほとんど無想に近い禅定。
(4)六妙門
『大安般守意経』『修行本起経』『太子瑞応本起経』などに、「数息・相随・止・観・還・浄、この六事はある時は坐となし、ある時は行となす」に基づく修行法である。
- 「数息門」は、最も基本になる修行法である。生命の根源でもある入息と出息の呼吸を数えることによって整心、すなわち心を調整する修行法である。思考が乱れれば呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば心が乱れる。心が乱れれば思考が乱れる。その結果、ものごとを歪んで捉えることになる。ありのままにあるものを捉えるためには、連動している呼吸・心・思考の三者のうち大本の入息・出息を数えることに徹することである。呼吸を数えることによって、心の隙間を埋め心の隙間に余分なものの侵入を防ぐことができる修行法である。
- 「随息門」は、呼吸の出入に自己の身心の全てを委ね自我を否定する修行法である。自我を実在させる自我的な心を静める修行法であり、呼吸の中に自我を従わせる修行法である。
- 「止門」は、造りだされた自我的自己は、意識作用の中で連動し続けて、永遠に自我造りに専念する。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を通して得られる対象を追いかけるという心作用を停止し、心を一境(丹田)に止住させることを坐禅の中で身につける修行法である。
- 「観門」は、自我は六根の対象を追いかけ判断し続ける。そうではなくて、自我に包まれた余分の思いは捨てながら、対象を客観化し観察し、一切は無実体であるという、そのものの本質を究明する修行法である。
- 「還門」は、身の七悪を捨てるため、心を返照して悪心を起こさないようにする。対象を観察する心を放下(ほうげ)し、執著心をも捨て心を固定化しない修行法である。
- 「浄門」は、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)の三毒を断除し、実相が清浄無相であることを証する修行法である。
数息・随息・止は、対象と向かい合う禅定の修行法で、観・還・淨は、自己と向かい合う智慧を開発するための修行法である。
(5)十六特勝
呼吸を数えて心の散乱を除く精神統一法である数息観を、多種類に細分拡充したもので、16種類の特に勝れた修行法である。
- 「念息短」は、まだ心が粗雑で散乱しているから呼吸は短いが、その短い呼吸に心を集 中して意識的・自覚的に呼吸をする禅定。
- 「念息長」は、心が微細になれば、呼吸も長くなるのを観じる禅定。
- 「念息遍身」は、肉身が空であることを知り、気息が身体に遍満するのを観じる禅定。
- 「除身行」は、身体的行為を除くことで、心が安静になって粗雑な息が滅する禅定。
- 「覚喜」は、心に歓喜を得る禅定。
- 「覚楽」は、身に安楽を得る禅定。
- 「覚心行」は、喜びから貪欲の心が起こることの禍を知る禅定。
- 「除心行」は、貪欲の心を滅し粗雑な受を除く禅定。
- 「覚心」は、心が沈まず、浮き立たないのを知覚する禅定。
- 「令心喜」は、心が沈めば奮い起こして喜びを生じさせる禅定。
- 「令心摂」は、心が浮き立てば、これを収め静める禅定。
- 「令心解脱」は、心の浮き沈みを離れて解脱する禅定。
- 「無常行」は、心が寂静となり、一切の無常を知る禅定。
- 「断行」は、無常を知って煩悩を断つ禅定。
- 「離行」は、煩悩を断って厭い離れる心を生じる禅定。
- 「滅行」は、厭離して一切の滅を得る禅定。
(6)九想
九想は、白骨観ともいわれる。肉体に対する執著や、美なる対象に対する貪りの念を除くため、ことさら人の死屍が膨張し、膿爛腐敗し、鳥獣に食われて散乱し、あるいは焼かれて白骨と化する醜悪な有り様に想いを凝らして無常を観じ、人の執著心を断つ修行法である。
- 「青想(しょうおそう)」は、血が古くなって、皮肉が黄赤となり、さらに黒ずんでいる有り様を見る禅定。
- 「膿爛想(のうらんそう)」は、皮肉が爛(ただ)れて、身体の9つの孔に膿や虫が溢れ湧いている有り様を見る禅定。
- 「虫噉想(ちゅうかんそう)」は、蛆虫(うじむし)や鳥獣に死屍が喰われる有り様を見る禅定。
- 「脹想(かんちょうそう)」は、死屍が脹れ上がった有り様を見る禅定。
- 「血塗想(けつづそう)」は、死屍に膿血が溢れている有り様を見る禅定。
- 「壊爛想(えらんそう)」は、皮肉が破れ腐敗した有り様を見る禅定。
- 「敗壊想(はいえそう)」は、皮肉が尽きて筋骨のみとなり、散乱して横たわっている有り様を見る禅定。
- 「焼想(しょうそう)」は、死屍が焼かれて煙と灰となる有り様を見る禅定。
- 「骨想(こっそう)」は、白骨となって散乱している有り様を見る禅定。
(7)八念
- 「念仏」は、仏は苦を抜き楽を与えると念ずる禅定。
- 「念法」は、法は二辺を離れ、よく煩悩を滅することを念ずる禅定。
- 「念僧」は、僧はよく正道を修し聖果を証することを念ずる禅定。
- 「念戒」は、戒は諸悪を遮し慧解脱を得ることを念ずる禅定。
- 「念捨」は、財施は慳貪(けんどん)を治し、法施は煩悩を除くことを念ずる禅定。
- 「念天」は、諸天は果報が清淨で一切を利安すると念ずる禅定。
- 「念入出息」は、呼吸の長短を観察し、心の散乱を除き定に入ると念ずる禅定。
- 「念死」は、死は生より以来常に身と倶にあることを念ずる禅定。
(8)十想
十想は、深く想いを凝らすじ10種の修行法である。
- 「無常想」は、種々の原因や条件が和合してつくられたものは、刹那生滅を繰り返し無常であると観想する禅定。
- 「苦想」は、全ての存在は意のままにならないから苦であると観想する禅定。
- 「無我想」は、全ての存在は仮の存在であって、固定的不変な独自の実体がないと観想する禅定。
- 「不浄想」は、人間の肉体は不浄であると観想する禅定。
- 「世間可厭患想・世間不可楽想」は、一切の世間は嫌悪し思い悩むべきであり、楽しむべき何もないと観想する禅定。
- 「食不浄想」は、世間の飲み物や食べ物はみな不浄の囚縁から生じた不浄なものであると観想する禅定。
- 「死想」は、死の相を観相する禅定。
- 「断想」は、涅槃の悟りを得るために煩悩を断とうと観想する禅定。
- 「離想」は、涅槃の悟りを得るために生死の迷いを離れようと観想する禅定。
- 「尽想」は、煩悩と生死を尽くして涅槃を求めようと観想する禅定。
(9)八背捨
八背捨は、8種の定の力によって、貪著(とんじゃく)の心を捨てる修行法である。
- 「内有色想外観色」は、色や形の色想が内心にあるのを除くために、外の色や形について不浄観を修める禅定。
- 「内無色想外観色不浄思惟」は、内心の色想はなくなったが、確実にするために不浄観を修し続ける禅定。
- 「浄解脱」は、浄解脱を身に証して具足して安住する禅定。
- 「空処解脱」は、物質的な想を全て滅して空無辺処定に入る禅定。
- 「識処解脱」は、空無辺の心を捨てて識無辺処定に入る禅定。
- 「無所有処解脱」は、識無辺の心を捨てて無所有処定に入る禅定。
- 「非想非非想処解脱」は、無所有の心を捨てて非想非非想処定に入る禅定。
- 「滅尽定解脱」は、受・想などを捨てて滅尽定に入る禅定。
(文学部教授)