5.道元禅師の只管打坐
釈尊以来の仏教の修行法は、基本的に「観の修行法」と「止の修行法」に大別することができる。
それに対して、道元禅師の「只管打坐」(しかんたざ)は、如何なる修行法であるのか、検討していくことにしたい。
「只管打坐」について、『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)には、結跏趺坐と半跏趺坐について説いた後に、「いわゆる坐禅は、習禅(しゅぜん)にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証なり。……まさに知るべし、正法自ら現前し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。……然れば則ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者を簡ぶ(えら)ことなかれ。専一に功夫(くふう)せば、正にこれ弁道なり。修証自ら染汚(ぜんな)せず。趣向さらにこれ平常なるものなり。凡そ夫れ、自界他方、西天東地、等しく仏印(ぶっちん)を持し、もっぱら宗風をほしいままにす。ただ打坐を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差といえども祇管に参禅弁道すべし。なんぞ自家の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来せん。もし一歩を錯れば、当面を蹉過(しゃか)す。……こいねがわくは、其れ参学の高流、久しく摸象に習って、真龍を怪しむことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏仏の菩提に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ。久しく恁麼(いんも)なることをなさば、すべからくこれ恁麼なるべし。宝蔵自ら開けて、受用如意ならん。」と説示されている。とくに、「坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。」という説示は、釈尊以来伝承されてきた修行の方向性と対立するものである。しかも、「修証一等」(しゅしょういっとう)「本証妙修」(ほんしょうみょうしゅ)の坐禅観が説かれ、坐禅は凡夫(ぼんぷ)の計らいを超えたものであることが明言されている。
道元禅師が入宋した当時の宋朝禅は、臨済宗楊岐派(ようぎは)の大慧宗杲(だいえそうこう)(1089-1163)派の公案を用いる看話禅(かんなぜん)が盛んであった。しかし、道元禅師に影響を与えたのは、宏智正覚(わんししょうがく)(1091-1157)の黙照禅である。
『正法眼蔵』坐禅箴(ざぜんしん)の巻には、宏智正覚の『坐禅箴』が収録されているので、訳文によってみていくことにしたい。「仏という仏、祖という祖の肝心要とした坐禅は、何物にも関わらないで知り、何物にも向き合わないで照らす。何物にも関わらないで知るから、その知は自然と微妙である。何物にも向き合わないので照らすので、その照は自然と微妙である。その知は自然と微妙であるから、全く分別の思いがない。その照は自然と微妙であるから、毛筋ほどの兆しもない。全く分別の思いがないので、その知は対するものがなく思議を超えている。毛筋ほどの兆しもないので、その照は執われることなく明らかである。
その坐禅の有り様は、例えて言えば、清らかな水が底まで澄み渡り、この水の中を泳ぐ魚の行程をはかることができないようなものである。空はあくまで広く、果てがなく、この空を飛ぶ鳥の跡を測ることができないようなものである。」と説示されている。
道元禅師は、「宏智禅師の『坐禅箴』は、偉大な真実の働きが現われ出たもので、目に見える姿を超越した威儀であり、父母もまだ生まれない前の本来の規範である。謗り(そし)ようもない仏祖の戒めが成就しているものであり、我が身、我が心を仏祖に任せきったものであり、人間の情量を超えた姿である。」と、コメントされている。
宏智正覚の坐禅に、一切の分別を絶して、黙々と打坐する「只管打坐」の原型を見て取ることができる。
道元禅師の「只管打坐」が如何なる修行法であるのか、宗学を大成された、鏡島元隆(かがみしまげんりゅう)先生のご著書『道元禅師』(春秋社)と『道元-正法眼蔵・永平広録-』(講談社)によってみていくことにしたい。
道元禅師の修行は、「只管打坐」である。「只管」とは、ただとか、ひたすらという意味であるから、「只管打坐」とはひたすらにただ坐るという意味である。修行と証とは一つであり、その修行は本証の上に立ったもので、「証上の修」「本証妙修」といわれる。
なぜ、道元禅師は「只管打坐」の修行法を案出されたのか。その根拠は、『正法眼蔵』坐禅箴の巻に引用された六祖慧能(ろくそえのう)の弟子南岳懷譲(なんがくえじょう)(677-744)と南岳の弟子馬祖道一(ばそどういつ)(709-788)の「磨塼の公案」(ませんのこうあん)にあるようである。訳文によってその問答をみていくことにしたい。
馬祖は南岳のもとに弟子入りして、朝から晩まで熱心に坐禅をしていた。ある日のこと、師の南岳が馬祖の所にやって来て、「お前は何をやっているのか」と問うた。馬祖は、「坐禅をしております」と答えた。南岳は、「何のために坐禅をしているのか」と問うた。馬祖は、「仏になるために坐禅をしています」と答えた。南岳は黙って傍らの瓦を拾い、傍にあった石の上でゴシゴシと磨き始めた。馬祖はあっけにとられて、「お師匠様は何をなさっているのですか」と問うた。南岳は、「瓦を磨いているんだ」と答えた。馬祖は、「瓦を磨いてどうなさるのですか」と問うた。南岳は、「瓦を磨いて鏡にするんだ」と答えた。南岳のその言葉を聞いて、馬祖はハッと悟った、という問答である。
馬祖は一体何を悟ったのであろうか。
この問答は、単に師の南岳と弟子の馬祖との問答であることを超えて、看話禅と道元禅師に連なる黙照禅との方向性を二分する重要な問答となったのである。
つづいて、看話禅と道元禅師の立場の相違を明らかにすることにしたい。
まず、看話禅の立場から如何に捉えたかを究明することにしたい。南岳が馬祖の傍らの石の上で、傍らにあった瓦を磨いてみせたことは、瓦をいくら磨いても鏡にならないように、いくら坐禅をしても坐禅だけでは仏になれないとして、坐禅に執着することを戒めた教えであると受け止めたのである。そのために坐禅とは別に心の工夫が必要であるとして、公案を用いたのである。このことを示すために師の南岳は馬祖に瓦を磨いてみせたというものである。
道元禅師はこれを如何に捉えられたのであろうか。坐禅する今、ここにすでに仏は顕われている。だから坐禅することによって、改めて仏になることはできないというものである。南岳が馬祖に石で瓦を磨いてみせたのは、坐禅に執着することを戒めたものではなく、仏になろうとする期待の心を戒めたものであると受け止めたのである。
道元禅師の坐禅において、「修行」と「悟り」はどういう関係においてあるのであろうか。
看話禅の立場は、仏とか悟りは修行する目標として掲げられ、それに向かって修行がなされる。
道元禅師の立場は、看話禅のように悟りという目標を目の前に掲げて、仏に向かって進むという修行ではない。悟りを背にして、仏の光に照らされて修行すること、「修証一等」「本証妙修」といわれる。修行して仏になるのではなく、悟りを背にして、仏の光に照らされて修行するのである。したがって、その修行は、すでに仏であることに気づかされた本証の上の修行ということになる。
さらに、鏡島元隆先生は、道元禅師の「修上の修」「本証妙修」という修証観は、中国の宋代の禅宗の修証観からは導き出されないもので、日本的展開であるといわれる。道元禅師の修証観の背景には、日本天台の教えとの深い関わりがあるといわれる。道元禅師は一度日本天台の思想を否定したが、若き時代に学んだ日本天台の教えが血肉の中にしみ込み、後に再び蘇ってきて、「本証妙修」という修証観を生み出したと指摘されている。
聖道門には始覚門(しかくもん)と本覚門(ほんがくもん)がある。始覚門は、因から果へ、凡夫から仏に向かう修行である。本覚門は、果より因へ、仏から凡夫へ向かう修行である。日本天台は、本覚門の教えである。
始覚門の立場に立つ看話禅は、修証は不二であるが、修は証に向かうと説かれる。
それに対して、道元禅師の本覚門の修証観からは、修証は不二であるから証は修に向かわなければならないと説かれる。
看話禅は、公案の工夫を重視する余り、坐禅を軽視し、果ては公案の工夫によってのみ悟りに到達できるという極論まで出るに及んだ。
道元禅師の「只管打坐」は、この看話禅の坐禅軽視に対して、仏法の正統を守るため、正統な修行法として位置づけられたものである。「只管打坐」の坐禅は、坐禅を実修することは勿論、日常の行・住・坐・臥のあらゆる生活に生かされなければならないと説示されるのである。
さらに、道元禅師は、人間には素質・能力の違いがあって、生まれながら才能に恵まれた優れた人もあれば、何の素質・能力もない才能の劣った人もある。瓦は何処にでも転がっているつまらないものである。人間でいえば、片隅におかれ、目立たない取るに足りない人間である。そのような瓦のような人間でも、磨けば鏡になると、教示される。つまり、瓦を磨けば、瓦としての光を放つ。玉も磨かなければ光を放たないが、瓦も磨きさえすれば、瓦は瓦としての光を放つというのである。すなわち、道元禅師は、凡夫は凡夫のままで救われる道を「只管打坐」の坐禅によって切り開かれたのである。
道元禅師の「只管打坐」の仏法は、悟りを否定したのではなく、全ての人に悟りを開放したと受け止められるべきであるといわれる。悟りを開放したということは、悟りという一回性の経験を尊重する立場を否定したということであって、それは限りなく修行することの他に悟りはないという意味に了解しなければならないといわれる。
そのことを道元禅師は、『正法眼蔵』発菩提心(ほつぼだいしん)の巻に、「発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なり、とのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあうにあらず。」と教示されている。
以上、道元禅師の「只管打坐」の仏法についてみてきたのであるが、一切の分別を絶してただひたすらに坐るということが、「只管打坐」であるといわれる。ただひたすらといっても、具体的に何をどのように坐るのか、一々についての説示はなされていないのである。「只管打坐」が凡夫が救われる坐禅であれば、やはり坐法の具体的な教示がなされて然るべきであると考える。勿論、坐法を具体的に教示すれば、「只管打坐」の仏法に反することになるであろう。そこに、「只管打坐」の仏法の難しさがあるのである。
6.仏教の修行法と只管打坐
釈尊以来伝承されてきた仏教の修行法からみて、道元禅師の「只管打坐」の修行法は、果して正統な修行法ということができるかどうか、検討していくことにしたい。
鏡島元隆先生は、インドから中国を経て日本に伝わった仏教の坐禅観は、三つの画期的な転回がなされたといわれる。第一は釈尊による転回、第二は慧能による転回、第三は道元禅師による転回である。
第一の釈尊による転回であるが、インドのヨーガの修行は苦行であったが、釈尊はこの苦行を否定された。釈尊は六年間に及ぶ苦行を捨てられ、ネーランジャラー河(尼連禅河)で沐浴され、村娘のスジャータの捧げる乳粥の供養を受け、ブダガヤーの菩提樹下において結跏趺坐をされ、成道された。釈尊は、結跏趺坐の坐禅の修行を通して、徹底的に自我心を対治して、現世において悟りに到達するための修行とされたのである。
釈尊以来、原始仏教・部派仏教・大乗仏教において、様々な修行法が案出されたことは、本稿の(上)(中)において、すでに検討してきた。
第二の六祖慧能(ろくそえのう)(638-713)による転回についてみていくことにしたい。慧能は、静処(じょうしょ)で心を丹田(たんでん)に移し、自我心を対治するインド仏教の坐禅を否定した。慧能の坐禅観は、悟りを得ることにその目的があり、自己の本性を見、自己を究明することにあるとした。悟りを得る機縁は、必ずしも坐禅によらないとした。つまり慧能は、坐禅に対する執われを否定し、坐禅そのものを否定したのである。慧能は、坐禅の宗教である禅宗から坐禅を否定するというような結果を導いたのである。慧能以降の禅宗の流れは、この延長線上にあるといっても過言ではない。
第三の道元禅師による転回は、六祖慧能の坐禅観を逆転回させた。慧能は、仏法を悟りの宗教と捉えることによって悟りから坐禅を開放した。それに対して道元禅師は、逆に仏法を坐禅の宗教と捉えることによって、坐禅から悟りを開放したのである。つまり、慧能からすれば、坐禅はあらゆる機縁の中の一つであるが、道元禅師においては、坐禅は諸行の中の一つの行ではない。坐禅だけが、ただ一つの仏法証入の道であるとしたのである。
道元禅師が、坐禅だけを仏法証入の道としたことは、中国禅を飛び越えて、インドの釈尊の立場に還ったものといえるが、かといって、道元禅はインドの釈尊の禅と全く同じであるとも言えない、といわれる。
釈尊の坐禅は、悟りに到達するために欠くことのできない修行である。悟りは到達点であり、坐禅は悟りに到るための絶対条件となるものである。しかし、道元禅師は、これをひっくり返して、悟りが出発点であり、修行はそこから出てくるものであるとされた。つまり、坐禅を悟りからの修行として捉え、それはインドの修行法にも、中国禅にもみられない、道元禅独自の日本的特色であると、鏡島元隆先生はいわれる。
問題は、慧能のように、坐禅を宗旨とする禅宗において、「坐禅」を蔑(ないがし)ろにしていいのであろうか。中国禅において、「自己の本性」「自己を究明」するということは、結果的に「自己の悟り」そのものに執着する結果になりはしないのか。
釈尊以来のインド仏教の修行法は、この「自己」を絶対否定して、「智慧」を導き出すためのものである。 現実問題として、道元禅師のただひたすら坐るという「只管打坐」は、具体的にどのように坐禅するのであろうか。
鏡島元隆先生は、インドから中国を経て日本に伝わった仏教の坐禅観を、釈尊・慧能・道元禅師に限定して、三者による画期的転回があったといわれる。この立場は、あくまでも禅宗からみられたもので、仏教全体からみた時、果して三者に限定して論ずることが可能であろうか。
例えば、インド仏教も釈尊だけでなく、部派仏教や大乗仏教においても、禅定と智慧に基づく様々な修行法が体系化されている。中国においても、禅観経典に基づく様々な修行法が体系化されている。とくに天台の『次第禅門』『天台小止観』『摩訶止観』等に基づく修行体系が確立されている。独り禅宗をもって坐禅を独占することはできないと考えるが、如何であろうか。
仏教の修行法は、到底この論考だけで論じ尽くすことはできない。稿を改めて究明していくことにしたい。
(文学部教授)