愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成20年度

建学の精神「行学一体・報恩感謝」の成立背景(著・所長 大野栄人)

 1.はじめに

 建学の精神は、大学教育・研究の根幹となるもので、大学の理念と目標の基盤として位置づけられている。建学の精神を根幹として、如何に教育・研究が行われているか、ということが問われている。

 2.建学の精神の諸見解

 駒澤大学佛教学部の一部の先生方は、駒澤大学の建学の精神である「行学一如」の成立をめぐって様々な論議を展開されている。

 また本学においても、文学部宗教文化学科の伊藤秀憲教授が、本学の建学の精神に関して、「『行学一体』備忘録」(「人間文化研究所報」第三十四号)と題して、本学の建学の精神の成立について論を展開されている。同じ内容の研究を、大学院文学研究科講演会においても発表された。

 その結論として、「『行学一体』という語句は、戦時中に学徒を勤労動員し、また学童を集団疎開させるときに使われた標語である。」と断定され、つづけて「愛知学院はそれ以前から建学の精神としてこれを用いていたのかも知れないが、戦後もなぜこれを躊ためら躇うことなく建学の精神として来たのであろう。」と、「行学一体」は戦時教育の標語そのものであると断定され、その理由として、「どうしてこれを道元禅師の言葉とするのであろう。『行学一体』という言葉は、道元禅師の言葉ではないし、禅の言葉でもない。道元禅師の言葉とすることは、宗祖の教えが、思想的な面で戦時教育に加担したということになる。」と、道元禅師や禅の言葉ではないから、戦時教育の言葉であると結論づけられている。

 さらに、石井公成氏が「『行学一如』の歴史的背景―橋田邦彦の主張を中心にして―」(『印度学佛教学研究』第五十五巻第一号)において、橋田邦彦との関係を指摘さている。橋田邦彦は、昭和12年に第一高等学校の校長に就任し、昭和15年〜18年近衛内閣・東条内閣において文部大臣を勤め、戦時教育の根幹を確立した人である。

 橋田邦彦は『正法眼蔵』の研究者で、『正法眼蔵釈意』(全四巻)の著者として有名である。翻って考えれば、橋田邦彦が研究の対象にした『正法眼蔵』の教えそのものを「行学一体」の一語で把捉したということは、それ以前に、すなわち明治時代の曹洞宗学において、すでに道元禅師の教えを「行学一体」として把捉していたのではないか、と考えられる。

 橋田邦彦が、戦時教育において、「行学一体」の語を使用したから、「行学一体」は戦時教育の言葉であるという結論は、早急すぎるといわなくてはならない。

 3.明治時代の仏教

 道元禅師によって開教された曹洞宗学は、鎌倉・南北朝・室町・安土桃山・江戸・明治・大正・昭和の時代を経て今日に伝承されている。曹洞宗学も幾多の変遷を経ていることを忘れてはならない。

 仏教が日本に受容されて以来、江戸時代まで神仏習合という形で仏教と神道は共存してきた。しかし、明治政府の成立によって、仏教は大きく変容することを余儀なくされたのである。

 本学は、明治9年(1876)曹洞宗専門学支校として発足した。本学の建学の精神「行学一体・報恩感謝」は、明治時代の仏教の影響下に成立したものと考えられる。

 明治政府は、神道を国教化するため、明治元年(1868)3月に「神仏分離令」を発令し、同年より日本各地に「廃仏毀釈」が断行され、仏 教寺院が破壊された。仏教教団は、かって経験したことのない徹底した弾圧を受けたのである。もちろん、曹洞宗も例外ではなかった。

 しかし、この「神仏分離令」は、維新期の目まぐるしい政治的転変にも拘らず、仏教本来の姿を取り戻し、近代宗教として脱皮するためにも仏教者自身の反省を促す絶好の契機と捉えた人たちがいた。

 その人々は、決して弾圧に負けることなく、新たな仏教の方向性を模索したのである。

 4.明治時代の曹洞宗諸師と建学の精神

 明治時代という厳しい社会状況の中で、政治的圧力に屈することなく、大胆な新仏教運動を展開したのである。

 曹洞宗からも多くの師によって、新仏教運動が起こったのである。その代表的な師として、原坦山・大内青巒・大道長安をあげることができる。

 これらの諸師と、本学の建学の精神との関係について明らかにしていきたい。

 まず、原坦山(1819-1892)は、実証主義的護法思想を確立した。坦山の護法思想の特質は、仏教内外に対する破邪顕正を行うことであった。

 『坦山和尚全集』所収の「教学の異同仏教諸教の異同」において、「近来学教の異同を 論弁するの説あり。……その説に曰く、学問は実験・索蹟・比較の三法を精密にし、事物の真理を究明するを学問と云う。学問の目的は智にあり、教法の目的は信に止まると。これけだし西洋諸教みな天主上帝を帰所となし、人間の見聞覚知の及ばざる所となせば信に止まるということ当れり。然れども仏教もこれと同じく信に止まるとは云いがたし。……仏氏の最上結果を究竟覚といい、無上智といい、仏智見といい、決して見聞覚知の外にあるものにあらず。」と説かれるように、異説に対して、教法と学問の本来在るべき在り方を破邪顕正している。

 すなわち、釈尊によって説かれた教法も、それを学ぶ学問も「信」の段階に留まるものでなく、それを実証的に把捉し、現実において各自が究竟覚・無上智・仏知見を具現していくことの必要性を教示している。すなわち、釈尊の教法を実証的に把捉することが「行」、究竟覚・無上智・仏知見を具現することが「学」として捉えられている。

 坦山は、戒律を重視し、従来の仏教の形式や威儀の保持に捉われることなく、専ら一心生起の具体相に即して実証的に把握することに心血を注いだ。持戒持律の目標につい て、『坦山和尚全集』所収の 「万法一心」において、「千差万種の法は、一心の思想所 見より変することを了せば、万法は氷消して一身の実体に帰し、彼の思想情識の妄計偏 執を脱す。」と説かれ、持戒持律は六根・六境・六識・五蘊 などから生ずる自我意識から自己を開放し、仏としての自己に帰ることを示唆している。

 つぎに、大内青巒(1845-1918)は、信教の自 由と仏教者に対する護法の覚 醒を促そうとし、啓蒙的開明 思想家として活躍した人である。曹洞宗の僧侶として就学 し、のちに還俗して在家仏教 者となった。青巒は、仏法の 伝統を護持するという基本的 立場から、この信念を貫くために、宗派仏教の弊習を根底から否定し、僧侶のためだけ の仏法ではなく、在家の人々を中心とする仏法、すなわち 仏教の世俗倫理と信仰を復活するために尽力したのである。

 青巒は、『信行綱領』を著し、通仏教によって誰もが納得できる信と宗教的実践の体系化を試みたのである。この書の主旨は、「三信」と「三行」を説くことにある。

 「三信」は、本体平等・現相差別・妙用感応の三つの骨子からなり、知識の源として捉えられている。

 「三信とは、吾人は無限の空間に充塞し、無限の時間を貫通して宇宙平等の本体たる絶対不変の霊光あることを確信す。吾人は宇宙平等の本体活動して万象差別の現相となり、因縁相続して世界の果報歴然たることを確認す。吾人は万象の妙用おのおのその本徳を全うして互いにあい感応するときは、即ち差別の現相直ちにこれ平等の本体たることを確信す。」と説かれている。

 「三行」は、日常生活における行の実践として、止悪転迷・修善開悟・済衆救世を説き、この実践を通して、仏法の理想とする社会倫理と個人の安心立命を目標としたのである。

 「三信」は、知識の源であるので、「学」に相当する。「三行」は、行の実践であるので、「行」に相当する。まさに、青巒は三信・三行を一体として実践体系を確立したのである。

 本学の建学の精神「行学一体」の理論的典拠を、大内青巒にみることができる。

 曹洞宗が在家仏教化していくに当たって、青巒は重要な役割を果たしたことを忘れてはならない。すなわち、『洞上在家修証義』の草稿を完成させたことである。「一言半句も私言をいれず、ことごとく高祖大師の御おことば詞と儀軌と梵網経との文句ばかりにて編輯した。」と述べている。青巒は、道元禅師の本修・妙修の源流を経論や祖師の語録に求め、

として、体系化したのである。

 『洞上在家修証義』に「行持報恩」を取り入れたのは、明治期において、報恩思想が民衆に対する教化思想を基礎づける教説として重視されたからである。報恩の思想は、仏教の基本的な原理である縁起の思想に根ざすものであり、無我縁起の主旨に従って行われる報恩の実践では、自他不二の倫理による他者への返報を意味していたのである。

 本学の建学の精神「報恩感謝」は、『洞上在家修証義』の「行持報恩」を理論的根拠として成立したものである。

 つづいて、大道長安(1843-1908)は、曹洞宗の僧侶であったが、後に還俗 した人である。『法華経』の観世音菩薩に深い信仰をもって、苦悩する世の人々を救済することを使命とした。救世教を開教した長安は、「宗教の本務は、一信の下に安心立命するにあり。現時仏教信徒の状態、多くは檀越的妄信にして、真信あることなし。」として、宗派仏教の伝統にとらわれないで、在家者を中心とする仏教運動を展開した。

 長安は、「観音の功徳」に信仰と学理の関係について、「仏教は元来より信仰心を堅固にするための学理、学理を緻密ならしむる信仰である。畢竟するところは真正の信仰的が仏教全体の眼目骨髄であります。学問的はわずか、知の位で、研究というに止まっております。…してみると信仰は行の位で、知識よりも数歩上席を占めるところの実利主義でございます。」と説いている。これによれば、学問を知識とし、信仰を行として捉えている。ここにも本学の建学の精神「行学一体」の理論的根拠を求めることができる。

 長安が救世教を唱導した時期は、曹洞宗においても在家化導法や、一宗の安心を求める声が高まった時期でもあった。曹洞宗門では、出家修行者の学道用心のための教育方法が整備されていたが、在家信者の安心については、その体系化は試みられていなかったのである。

 長安は、「救世方便義」に「日に月に社会とともに進化し、普く衆生の苦縛を解き、もって四恩を報じ、もって社会の権利義務を実行するを要す。」とか、「六徳行を修して四恩を報ず。」とか「恩を知り恩を報ぜられよ。」と説かれている。本学の建学の精神「報恩感謝」が説き示されている。

 5.おわりに

 以上、明治時代の曹洞宗諸師の教学を通して本学の建学の精神「行学一体・報恩感謝」の理論的根拠を究明した。

 その結果、橋田邦彦は、明治の曹洞宗諸師の影響を受けたものと考えられる。

 本学の建学の精神は、曹洞宗教団が、明治という時代を背景に、出家教団から在家教団へと変容を遂げていく過程の中で成立したものであるということができる。本学の建学の精神は、決して戦時教育の産物でないことを申し添えておきたい。

(文学部教授)

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