愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成22年度

「即如」について(著・所長 岡島秀隆)

 『新語・流行語大賞』というものがあります。昨年の年間大賞は「ゲゲゲの」で、NHKの朝ドラにもなったアレです。ちなみに私は水木しげるの大ファンです。ご承知のように毎年この賞にノミネートされる言葉には造語も多く含まれています。日本人は結構造語も上手いのではないかと思います。特に明治期には、翻訳の関係で沢山の造語が発明されたではないでしょうか。福沢諭吉や西周といった人々はその名人と言われています。

 ところで、「即如(そくにょ)」という言葉があります。なかなかに禅的で興味をそそられる言葉ではないでしょうか。実はこれは柳宗悦(やなぎむねよし)という哲学者の造語です。この人物は大変幅の広い活動をされた方で、哲学者というより「民芸運動」の創始者として、指導的役割を果たした人物といったほうが分かり易いかも知れません。『手仕事の日本』や『民藝とは何か』といった著作は現在も愛読されています。思想的研究領域も大変広範にわたり、東西両洋の哲学・宗教思想に深い理解をお持ちです。たとえば、『南無阿弥陀仏』などの著作には一遍上人をはじめとした日本浄土思想への深い造詣がうかがわれますし、他方で自らの信仰の基盤はキリスト教であると宣言されている通りでして、キリスト教神学やエックハルトなどのキリスト教的神秘思想を専門とされつつ、西洋哲学には当時超一流の識見を示されております。

 私が柳宗悦の思想に接近したのは一遍の生き方に関心を持ったところからでしたが、明治から大正・昭和初期にかけての時代を生きられた方には、実に魅力的なところが多々ありまして、殊に西洋への憧憬が強かったこの時期の人々の、国際世界に向けられた広い眼差しと柔軟な精神性、加えて、外国の知識や文化を貪欲に吸収しようという意志力には強い憧れを覚えます。柳氏もそんな魅力を備えた人物ですが、そのプロフィールからして、氏の思想用語をここで取り上げることに躊躇する面もあります。しかし、この人物の仏教への造詣の深さと宗教全般への見識を思えば、ここで率直に氏の思想の真意を求めたいと思った次第です。蛇足ですが、柳氏は鈴木大拙やバーナード・リーチなどとも長い親交あった方です。

 さて、「即如」という言葉は、柳氏によって「宗教的究竟語」として創作された語です。宗教的究竟語、それは宗教的究竟者を示す名称と言い換えてもよいと思いますが、それはすでに様々な民族、文化あるいは宗教の中で用いられてきております。しかし、氏は「字義の問題に過ぎぬと思う人があるかも知れぬが、言葉こそはしばしば思想の自由を障害した。特に宗教においてそれが甚だしい。予が敢えて習慣的用語をさえ破ろうとするのは、こと究竟者に関わる大事だからである」と述べて、敢えて自己流の用語を考案されたわけです。哲学の中でも特に宗教哲学の分野に主たる関心を寄せられる柳氏にとって、宗教の「究極的核心」は当然「神」のような存在ですが、それを指示する語を原点に回帰して問い返すという点に、氏の哲学者にして信仰者としての面目が感じ取られ共感を覚えるのです。

 さらにそのことは禅の祖師たちの足跡にも共通項を見いだせる態度といえましょう。禅の祖師たちはそれぞれの禅風を挙揚しています。「超仏越祖(ちょうぶつおっそ)」とは、歴代祖師各自の創造的独自性が主張された禅の歴史の特性を示す言葉といえます。そこには個々の人格性の相違にとどまらず、それを育成した時代性や地域性といったものの反映も含まれているでしょう。そうした要素の全てを包含した独創的言辞で祖師たちは語り来ったのです。柳氏は明らかにそのことを意識しています。

 「即如」の語は「即」と「如」の二つの文字から造られています。まず即の字は「すなわち」であって直下(じきげ)の謂(い)い、二個のものに間隔の介在を許さないという意味であると説明されます。それは「間髪を容れぬ態の消息」「真に一元を代表すべき言葉」であるとされ、仏教に言う「即心即仏」などの言句を示して、「即」は「規範的に二元を許さぬ絶対値の暗示」であると述べ、即興、即時、即断というもその意味を含んでいるといわれます。また、柳氏は鈴木大拙氏の禅・仏教用語の英訳も参照されていますから、その「即非の論理」といった表現も考察の射程に入っていたはずです。

 次に、「如」は先人たちが行き着いた究竟語として最も適切なものと見なされており、それは「ごとし」であって、「何ものかの指示、暗示」であり、「定義によって局限することを恐れた用心深い思想家の愛した象徴的意義の最も簡潔な知的表現」であると述べられています。周知のように、それはいろいろな仏教経典の中に登場する用語です。氏は『維摩経菩薩品』の「一切ノ衆生ハ皆如也、一切ノ法モ亦如也、…夫レ如者不二不異」の言句を例にあげて、「如」の語の示すところには何らの独断もなく、暗示によってあらゆる定義の桎梏(しっこく)(束縛)からも解放された「自由」が確保されていると解説しています。この一字はやがて「真如」の熟語を生み、「如如」と重ねて強度を加えられたというわけですが、そこに新たな新鮮さを意図して「即如」の語は案出されたのです。さらに「即」と「如」の両語を結合することで、「一元的知解」と「象徴的暗示」を含蓄させられると説かれております。

 それではこの語が示す宗教の究極的核心はどのようなものであり、それがこの語とどのように関連するのでしょうか。宗教の究極は洋の東西を問わず、また宗教と哲学の領域を超えて、種々の言葉で表現されてきました。さまざまな宗教で神、ヤーウェ、ゴッド、アッラーなどと呼ばれてきましたし、概念的には至高者、始源者、創造者、無限者、実在、超越者などと規定されました。新プラトニズムの創始者プロティノスの「一者」も、汎神論者スピノザの「実体」も、ヘーゲルの「絶対精神」も、ニーチェが善悪の彼岸に見たものと同様のものでしょう。

 だが、そうした呼び名は宗教的究竟者それ自体の一部分を示した言葉にすぎないのです。氏はいかなる言語行為も、それが論理的であればあるほど、それは説得力を増した規定、限定ではあるけれど、それ自体への言語的定義のいかなるものもそれ自体の「相対化」の行為であると考えています。それ故に先人たちは言葉の使用に細心の注意を払っているのです。

 あくまで言葉によってそれ自体を表記しようとする際には、彼らはそれを「何ものかではない」という表現で徹底的に否定し続けました。そうした方法は柳氏において「否定道」と呼ばれています。さらにそれ自体が持つ無規定性、無限定性を矛盾の内包として表現する「矛盾道」が行使されたとも言われています。先に触れた鈴木大拙の「即非」や西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」などといった用語はその系譜に属しています。殊にそうした技法が定式化されたものが禅の言語行為でしょう。「趙州無字」などの公案や「青山常運歩」などの禅語を数え上げればきりがありません。禅は真実相を表示するためにさまざまの工夫を発明したわけですが、それでも究極のところは「言語道断(こんごどうだん)」、「絶言絶慮(ぜつごんぜつりょ)」ということで、言葉では言い表せないというのです。

 ただ、それが結論であるなら言葉の使用を断念すればそれで済みそうなものですが、言葉と人間の関係はそんな単純なものではありません。単純な割り切りで事足りるというなら苦労はないのでして、我われはどうしても世界を「対象」として見て、それを考えてしまう思考する生き物なのです。そこに第三の道があります。柳氏はそれを「象徴道」と名付けています。そこで用いられる言葉の役割は、ものを対象化して概念的にとらえるのではなく、「ありのままの自然」を指し示す指標です。そういう象徴的言句として「即如」の語は位置づけられるのです。ただし、それはどこまでも指標としての二義的なものでしかないのであって、それに導かれてその彼岸にそれ自体を「味識」することが希求されることは必然です。この「味識」というのも柳氏の造語と思われ、認識や知識といった概念では示しえない捉え方をいうのです。そしてその捉え方は、いわば究極への芸術的美的接近方法であり、人はそこで究極的なものを認識するのではなく、体得・会得して味わうのです。

 それはまた、それ自体を自己の外部に置いて観察するのではなく、「内側から知ること」であるとも言われています。それはすべての区別分別を超えて、それを「直観的に知り味わう経験」なのです。「即如」の指示するところは論理科学的方法の対象ではなく、直観的芸術的方法によって暗示されるものというわけです。

 さらにそれは「沈黙」と親密な関係を取り結んでいます。「言葉こそは膚浅である。最良の言葉はいつも沈黙を出ない」と氏は言います。「「直指人心」においてのみ宗教は活きている」とも述べられます。「わがたましひよ、黙して只神を待て、そは吾が望みは神より出づればなり」というダビデの詩編の言葉を示し、「五祖、因(ちなみ)に僧問ふ、如何なるか是れ佛。祖云く、口は是れ禍門」と禅の公案を引いて、沈黙の大切さを説き、沈黙こそが「即如」を最も雄弁に語るというのです。沈黙には消極的なものと積極的なものがあると思います。『死』という印象的なタイトルの著作で知られるウラジミール・ジャンケレヴィッチという20世紀フランスの哲学者は、「死を前にした沈黙」と「神を前にした沈黙」というように、そこを上手く二様に表現していますが、いずれにせよ、ここで柳氏の考えている沈黙とは、後者の積極的な意味での最も雄弁かつ含蓄深い沈黙の謂いです。それは柳氏自身によって「沈黙には神の言葉が溢れている。無為において神の力が動いている。この時予が活きるのではない、絶大な存在が活きるのである。静慮が活動の瞬間である」とも「多言の沈黙」とも語られるところです。

 もちろん、用語が二義的なものであることを柳氏は十分に理解しています。その上で人間理性が捉えようとする因果の範疇によって再構築された世界ではなく、「即如」の直観できるありのままの自然、美の中に垣間見られ、信仰の中で体得される真に無限で自由な「有即無、無即有」「一即一切、一切即一」の真実相への道標を提示しようと試みられているのです。

 こうした真摯の機運と本当の自由の境地を追究しようとする宗教的信仰心は、「本来の面目」を求める禅の道心と確かに一致するものです。氏は東西の宗教的神秘主義に強い関心を寄せていました。当然のことながら、禅をはじめとした東洋の瞑想法にも通じておられました。それらが求めた究極的境地をどのように表現できるのかという最も根源的で率直な宗教的問いかけが忘れられ、すべてが形式主義に堕しつつある今日の宗教界において、柳宗悦氏のかかる純粋無雑な探究精神は貴重です。そして、それは私たち現代人の思索と信仰に、多くの示唆を与えてくれるように思います。いささか込み入った話になってしまいましたが、論旨が明快さを欠いていたり、内容に読み取りにくい点があるとすれば、全面的に筆者の責任です。お赦しください。

(教養部教授)

愛知学院大学 フッター

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