愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成23年度

坐禅は「気づき」を育てる(著・所長 岡島秀隆)

 金子みすゞの歌に「星とたんぽぽ」というのがあります。

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は目にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。


散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

(『金子みすゞ童謡集』より下線筆者、以下同様)

 また、「見えないもの」という歌もあります。

ねんねした間になにがある。

うすももいろの花びらが、
お床の上に降り積もり、
お目々さませば、ふと消える。
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといいましょう。


まばたきするまに何がある。

白い天馬が翅のべて、
白羽の矢よりもまだ早く、
青いお空をすぎてゆく。
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといえましょう。

(『金子みすゞ童謡集』より)

 私たちには見えないものがたくさんあります。見えない世界があります。ひとつには、私たちの視力には限界があります。いくら目を凝らしても「物理的」に見えないものがあります。科学の力を借りて色々なメガネを用いたとしてもやはり限界があります。ふたつめに、私たちの思念や抽象概念といった「精神的」なものは、傍(はた)から見ることができません。それをいいことに様々な妄想や想像の産物が生み出されますが、こうした精神世界も無限の可能性はあるかもしれませんが、実際のところ無限とはいえません。そこにも未知で不可視の領野が広がっています。金子みすゞさんがいう「見えないもの」とは、確かに物理的と精神的との両面を含んでいます。

 ともあれそこには、実は見えているのに、知っているのに、私たちの注意力が及んでいなくて、「気づかないもの」「気づかない世界」というものが意識されていると思うのです。そして、もしそういう気づいていなかったものの世界に、いつか気づくことができたなら、それは何と素敵な経験でしょうか。きっとそれまでの世界が、その「気づき」から大きく変貌を遂げて、まったく新しい眺望が開けてくるかもしれません。そうした新しい世界との出会いは私たちの生命を活き活きと輝かせてくれます。

 ティク・ナット・ハンというベトナム出身の禅僧の書物を読みますと、人間の「気づき」と坐禅(瞑想)の深いつながりについて、懇切に説明してくれています。

考えることを減らしてみよう
意識的呼吸法を練習してゆくと、考えごとが減り、体全体が本当にくつろいできます。私たちは1日じゅう考えごとばかりしています。気づきの呼吸を行なうと、こころが鎮まり、落ちついてきます。
過剰な思考の連続から解放されて、過去の悲しみ、未来の心配事から自由になります。
呼吸に戻ることによって、いまここに充足しているいのちに触れることができるのです。

(『微笑みを生きる』より)

 もちろん老師は考えることを完全否定するわけではありません。しかし、私たちの内面には偏見やこだわりの気持ち、堂々巡りの思索といった本来無駄で無用な思考が絶えず渦巻いています。言葉でものを考えるようになってしまった人間という生き物の宿命かもしれませんし、それが特に顕著になってしまったのは現代という騒がしい時代の病弊というほかないのかもしれませんが、現代人の頭の中は、昼夜を問わずエンドレステープが回り続けているような状態だというのです。小池龍之介氏は、そういう断片的思考の混ざりものに「ノイズ」という表現を用いておられます。また、そうしたものに邪魔されて集中できない脳内の状態を「思考病」と表現されていますが、類似点がありそうです。小池氏によれば、「心の情報処理のプロセスにはチラチラとノイズが混ざっている」といいます。そのノイズとは「強い「欲」や「怒り」の煩悩とともに心に刻み込まれた情報」であり、そうしたものには「心が強い執着とともに何度も繰り返し残響する」というのです。そういう残響にイライラさせられた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

 それでは、そういう状態から抜け出す手段はあるのでしょうか。小池氏は自著『考えない練習』のなかで、「自分の感覚に対して能動的になる練習」を繰り返すことで「考えごとのノイズ」に引きずられることなく、「いま、この瞬間」の情報をはっきりと認知して、心が充足感を覚えるようになるといいます。つまり、「見えている」「聞こえている」という受動的状態を「見る」「聞く」という能動的状態にシフトチェンジすること、意志をもって自分の五感を用いることで、ノイズに分散させられていた意識を集中させることができるというわけです。ノイズが減少すれば精神活動の集中力が増して効率よく合理的に思考を進めることができるでしょう。それはそれで心地よい体験です。しかしそれ以上に素晴らしい可能性があります。つまり、このことは「五感を研ぎ澄ます練習」に繋がり、きっと私たちの世界観を変えることになるかもしれないのです。それは日本人がかつて知っていた何気ない自然の風物を「いとおかし」と受容できる観察力と心性を取り戻すことでもあります。

 ただ、感覚を能動的に研ぎ澄ますためには結局どうすればよいのでしょうか。単に能動的に意識する訓練といわれても私たちはそういう意識の意識的使用を絶えず意識し続けることができません。それでは疲れてしまうでしょう。そこで、それを何らかの形で習慣化してすぐにスイッチを入れられるようにしておくしかありません。そういう仕掛けを理屈ではなく、身心の活動の中にシステムとして組み込んでおくわけです。要するに「体に覚えさせておく」ということです。

 ティク・ナット・ハン師の見解にもどりましょう。老師によれば、意識的呼吸ないし瞑想がすべての鍵になります。

意識的呼吸法を行なえば、息を吸ったり吐いたりしているときに思考は止まります。
・・・・・数分間「入息」、「出息」をつづけてゆくと、気持ちがすっきりして、何ともいえない清涼感が生まれてきます。
本来の自分に戻って、いまここで私たちをとり囲む美しい世界に出会うことができるのです。

(『微笑みを生きる』より)

 老師の瞑想の概念はかなり幅の広いものですが、その基本は呼吸であり、坐禅であることに相違ありません。そして、師の方法論を読んでおりますと、決して無理をしないこと、継続すること、さらに環境に留意することなどが大切だといわれています。坐禅中に決して体を動かさないという禁止事項がある参禅会であったら、参禅者の何人かは大変窮屈で不愉快な思いをして、二度と坐禅をする気にならないということになってしまいます。そうなると坐禅は不自然な姿勢を強要する堅苦しいものと勘違いされることになるかもしれません。それでは逆効果です。本来、坐禅瞑想は肉体的苦痛に耐えて忍耐力を養うといったことではないのです。それではまるで苦行です。

 わが宗門の開祖、道元禅師も坐禅を行う場合の用心を説かれています。たとえば、『普勧坐禅儀』には「それ参禅は静室宜(じょうしつよろ)しく、飲食節(おんじきせつ)あり(坐禅するには静かな部屋がよく、食事は節度が肝要である)」とか、また「尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷(し)き、上に蒲団(ふとん)を用(もち)う(いつも坐禅をする場所には厚く敷物を敷き、その上に坐蒲を置く)」、「寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繫(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし(坐するときは、袈裟などの衣服を緩めに掛けて、身仕舞はきちんと整えなさい)」などと懇切な教示があります。横着を許すというわけではありませんが、無理のないゆったりした条件を用意してこそ、心ゆくまで坐禅に専念できるというわけですから、両者の考えは一致しています。このようにすると参禅も永続きします。決して力まず、倦(う)まず弛(たゆ)まずです。

 老師はこうした坐禅瞑想を身に着けてゆくと、「私たちはつねに深い生の現実と一体でいられるようになる」といわれます。目の前にあったのに、うっかり気づかなかった、ありのままの現実への「気づき」がそこに生まれます。それは当面、たとえば一片の雪華の美しさへのささやかな気づきであるかもしれませんが、それを深め育てることが大事だともおっしゃっています。また、その先には次のような老師のメッセージが待っています。

私たちが瞑想をするのは平和なこころ、喜び、そして非暴力の精神を育てるためです。

(『微笑みを生きる』より)

 老師は「行動する仏教(エンゲージド・ブディズム)」の提唱者であり、平和運動に深くかかわった活動をされています。師は仏教の伝統的瞑想法を自身の活動理念の根幹に据えておられます。簡潔に言えば、個々の人間の心の平和が世界平和の出発点になるという考えだと思います。個々人が自分の心の平安がどのようなものかに気づき、それを妨げる社会の情勢や課題に気づくことが人類の平和の実現への第一歩だというわけです。

 ところで、私たちの多くは平和運動などというと、それに積極的に参加したり協力したいという漠然とした願望は持つものの、自分の日常とは随分とかけ離れた遠い世界のことだという感じも同時に持ってしまいます。一方、自分の心の平和とか、気づきの方法などというと、身近な現実の問題として関心を持ちます。老師の主張にはそれぞれの人々の日常的現実と遠くに霞んでいてはっきりしない世界、言い換えれば、見えている世界と見えない世界を繋ぐ力があります。冒頭に掲げた金子みすゞの歌の一節にあった、見えぬけれどもあるものへのひとつの経路が示されています。そこを実際に歩き出すかはともかくも、坐禅瞑想によって気づきの世界に入るということは、私たちに新しい世界の相貌(そうぼう)を見せてくれる可能性の扉を開きます。目に見えないものに思いを馳せる想像力、遠い世界と自分の生活が繋がっていることに気づき、はるかな世界の平和を願う気持ちを育てることにつながるのです。姿勢を正しくして坐禅をすれば、心も真っ直ぐになります。すると、善いものも悪いものも、美しいものも醜いものもありのままに見えてきます。たしかにそれは、私たちに都合の良いことばかりを見せるということにはならないようです。「徧界曾(へんかいかつ)て蔵(かく)さず」とはそういう意味合いを含んでいるようです。それでも私たちは一歩をすすめるべきです。そうしないと自己の生の意味も真剣に問わぬうちに、またこの世界の素晴らしさも垣間見ぬうちに、時間は過ぎて行ってしまいます。こう考えてきますと、坐禅は宗教的方法論であるばかりか、むしろ人間がよりよく生きるために有用な普遍的手段であり、人生の妙術ということになります。

(教養部教授)

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