愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成24年度

只管(ひたすら)(著・所長 岡島秀隆)

 「只管」とは「ひたすら」と読みます。「一向」とも書き「一途」にも繋がります。「ひたむき、一所懸命、専念する、打ち込む」などといった好意的な印象を与える言葉という側面と、「やみくもに、無目的に、頑固一徹、溺れる、そっちのけで」といった幾分マイナスイメージを含んでいる面もあります。

 確かに「ひたすら」な様子は状況によってさまざまな印象を与えることがあり、例えば「ひたすら何かに打ち込む姿」は「熱心に頑張っているなあ」と感動を呼ぶ場合もありますし、「自分よがりで他のことはそっちのけ、怪(け)しからん」という気持ちを引き起こすこともあります。しかし本来、この言葉は善悪や好き嫌いとは関係なく、ただ「淡々と当たり前のことを行うさま」「ルーチンワーク、日課をこなすさま」を言うのではないでしょうか。

 道元禅師の言葉として有名な「只管打坐」は「しかんたざ」と音読みになっています。「一心不乱」に坐り続けることの意ですが、それが「仏行」に通じるという思考の連鎖があります。「一寸坐れば一寸の仏」と言われるように、線香一寸分の時間を坐禅に熱中している間は、仏になっているという表現が禅宗にはあります。禅師の行仏・仏行の教えにもそういう理屈があります。坐ったら坐っただけの時間は、我々は仏と寸分違わぬ仏そのものになっているというのです。それ故、只管に坐禅することは喜んでなすべき行為です。もちろん、禅師は坐禅をしているときだけというのではなく、行住坐臥の全てにわたって、正法に従って生きることこそ仏行であり、それを行じている修行者は行じている仏なのだとおしゃっています。

 ところで、「ひたすら」な行為というものは集中力を要することも事実です。だが、その行為が習慣化した場合のもう一つの効果があるように思えるのです。それは集中力が持続しなくなった時の効果です。私は朝起きると必ず自分でコーヒーを入れます。まだ眠気が残っており、脳と身体の活動が不十分な、この物憂い時間をルーチンワークで乗り切っています。まずポットに水を汲んで火にかけます。湯が沸く間にドリップにフィルターをセットして、そのあと豆を挽きます。挽き終わった豆をドリップに移し替えると、お湯が沸騰してきますから、その後は注意深くポットから湯を注いでゆきます。コーヒーが入る頃には少し心身が覚醒してくるという具合です。これをしないと気分が悪くて一日調子がでないという程ではないのですが、落ち着いた覚醒への準備時間は「イイ感じ」なのです。こういうことは毎日散歩やジョギングをする習慣のある方々には理解してもらえると思うのです。

 最近こうしたルーチンワークの意味について再認識させられることがありました。昨年末に母が脳梗塞で緊急入院をしました。右半身に後遺症が残りましたが、不幸中の幸いということで今は回復期のリハビリを行っています。病院の先生や看護師、介護福祉士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士などの皆さんのお世話を受けているのですが、リハビリはなかなか進みません。高齢というのが大きいのですが、筋力が落ちていることと、何よりも根気が続かないのがリハビリの障害になっているようです。毎日積極的に体を動かす習慣が身についていたら随分と違ったんじゃないかと思います。「介護老人保険施設」などの中には毎朝皆でラジオ体操をするところがあるようですが、そういうふうに身体を動かすことが癖になっていたらよかったのにと考えたりします。もっとも多くの日本人には小中学校の頃にラジオ体操をした体験はあるものですから、始めれば抵抗は少ないと思います。一般的に身についた習慣というのは私たちの行動を拘束・制限することもありますが、ある行為を苦も無く何とはなしに出来てしまうという面があって、それが良い生活や生き方に役立っている場合もあるわけです。

 近頃「モチベーション」「動機付け」という言葉をよく耳にします。教育の現場でも、若い学生たちのモチベーションを高め、維持させるためにはどういう指導や仕掛けが必要かということが議論されます。もちろん学生たちの「やる気」を起こさせることは大切です。ただ、それが一時的な気分にとどまって持続しなければ意味がありません。学生自身がやる気を持続させるためには忍耐力や強い意志が必要でしょう。また、指導する教員の側にしても同様の力が不可欠です。しかし、やる気が萎えてしまったり、どうしても見つからなくなってしまった時にはどうするのでしょうか。他の人の助言を求めたり、ひっくり返って「もうやめた〜!」と叫んでみて気分転換をはかったり、方法はいろいろあるのでしょうが、そういう頑張れない人生の狭間で私たちの振る舞いの多くの部分を埋めてくれるのは、無意識の習慣というものかもしれません。

 私たちは、習慣は多くの場合、知らぬ間に(無意識に)「身に付く」ものと考えます。それはそうなのでしょうが、意識的行動が習慣化に影響を与えることもあると思います。私たちは「生活習慣」を自分で選び取ることができます。食生活や健康管理に留まらず、読書習慣や学びの姿勢、神仏を畏敬する気持ちや社会ルールを重んじる道徳的態度など、個人の生活習慣の形成には、意識的行動が大きな要因になるところがあると思います。ひたすらに何かをするというのは最初は意識的な行動ですが、それが習慣となってゆくというところに不思議な面白味があると考えます。

 母のリハビリは今も続いております。痛かったり面倒くさかったりで、時々口実をいってサボることもあるかもしれません。私は母にリハビリをしてもらいたいものですから、そうした雰囲気を察知するにつけて、繰言と知りつつ身体を動かす習慣がもう少し母にあったらと考えてしまいます。習慣というものには、「いやになっても辛くなってもそうしてしまうという情けなさと安直さと有難さ」があります。

 『正法眼蔵』の中に「諸悪莫作」の巻があります。よく知られたことですが、この「七仏通誡偈」の初句の解釈は、修行者の成熟度によって異なる解釈が成り立つと説かれています。即ち、初心者には「諸悪を作(な)すな」という絶対的命令として受けとられるのが当たり前で、それが正しい解釈だが、この命令に従っているうちに、修行者自身が「諸悪を作(な)すことなし」という状態にいつの間にかなっていて、そうした段階に到れば、この句の意味内容は命令ではなく、その人の身心の実状の表示になっているというのです。これは大変面白い考えですが、「只管打坐」の語の意味もそういう動態的解釈が成り立つと考えられます。つまり、この語も初歩の者には「一心不乱に坐禅すべし」という命令に聞こえるのが自然なのですが、修行が進むにつれて「習い、性となる」で、それは努力目標でもなく、「ひたむきに黙々と坐るのみで、それをただ愉(たの)しむ風情」を表現している言句ということになるのではないでしょうか。愛知学院大学の坐禅堂で毎月開かれる「火曜参禅会」も沢山のリピーターが参禅します。ひたすら坐ることが苦にならず、苦もなくできてしまう参加者の皆さんは「只管打坐」の実践者と言えましょう。

 また、こんな相田みつを氏の詩がありました。「ただ」という題名です。

 ただ

ひたすらに

ただひたすらに
ひたすらに
ただ坐るだけ
ただおがむだけ

ただになれない
人間のわたし

 『人間だもの』の中では「花はただ咲く、ただひたすらに・・・」と詠われています。また「泣」という題の詩には「ただひたすらに泣けばいい」と詠っています。「ただひたすらに」のフレーズは相田氏のお気に入りでありましょう。相田氏の筆書きの詩は、行の一筋ごとに文字の大小があり、そこにも思いが込められています。それを活字では充分に表現できませんが、この詩の最後の二行だけは他の行よりも明らかに小さい文字になっていて、そっと控えめに囁いているようでした。そこは作者自身のちょっと照れくさそうな告白の言葉に見えました。

 さて、この詩は題名そのままに「ただ」という言葉がテーマです。「ただ」とは「ありきたり」「ふつう」という意味があります。また「ひたすら」の意味もありますから、こうなると「ただひたすら」という言い方には重複があることになりますが、言葉の響きはとてもいいと思います。ここでは普通に何の他意もなく、一心不乱に坐禅すること、拝むこと、「ただそれだけということが難しいのだ」と言われている。確かにそうなのです。坐禅をしていると、「この忙しいご時世に、一体全体何のためにすわっているのか?」「坐禅に何の意味があるのか?」といった疑念やさまざまな想念が沸き上がってくるものです。そういうときには、そういう思いに執着するのを止めて、それを受け流して坐禅を続けよという助言がされます。しかし、「言われてすぐにできるのなら苦労はない」と直ちに反論が返ってきそうです。私たちの想念は意識的にコントロールできる部分とそうならない部分があります。そうならない部分は意識的に受け流そうといってもなかなか厄介です。これを克服して何とかする手立てを考えてみますと、ここにまた習慣化というキーワードが現れます。

 私は奈良や京都の大きなお寺の仏像の前に立つと、体が自然に動いて掌を合わせ拝んでしまいます。この無意識の行為は振り返ってみますと、路傍の小さなお地蔵様の前でも、他家の仏壇の前でも行っています。その時何かをお願いするわけでもなく、自然に掌を合わせて無心の刻(とき)を「ただひたすらに」拝んで過ごすのです。四六時中こういう時間の中にいることはできないので、そういう意味で相田氏の言うように、私たちは「ただになれない人間」なのですが、ひたすらに何かをなす時間を忘れないでゆきたいものです。

 習慣の中に身を置くということは、何かに束縛されるのではなく、むしろ私たちが雑多な想いから解放される機会を体感することかもしれません。そういう時間こそ、人間の生の原点なのではないかと思えてくるのです。

(教養部教授)

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