沢庵(たくあん)和尚の『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』を読んだ。毎回の火曜参禅会での5分間法話のネタにという不純な動機からである。いや本当は以前からこの一書には興味があった。宗派は違うが、名高い沢庵和尚が、徳川将軍家兵法指南役であり、柳生新陰流(江戸柳生)の総帥であった柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)に授けた、この剣禅一如の極意書の原本が、今は存在しないと聞いてますます興味をそそられたのを覚えている。読んでみると和尚の世間世俗への知識と観察眼に感服した。特に感心したのはその譬えの妙である。さして長くない文面は内容的にバラエティに富んでいるという具合でもなく、むしろ内容は「無心(不動心)」の説明の繰り返しのようであるが、これを多様な譬えを用いて縦横無尽に解き明かしているといった様子である。
気に入った譬えを紹介しながら、その示すところを考えてみよう。
諸仏の不動智
冒頭の不動智の意味が説かれる一段では、まずそれが木石のように動かぬものではなく、前後左右、四方八方に自由に動きながら少しも止まるところのない心を指すといわれる。そして、そのいわば不動心を体現した姿が「不動明王」であると説かれる。不動明王は仏法守護の化身として、仏法に仇なすものにはそれを降伏退散(ごうぶくたいさん)させる恐ろしい存在と考えられるが、そうした仏法の守護者は身も心もぐらついていたのでは仏の世界を守ることなどできない。如何なる物事にも心を動揺させることがなく、どっしりと構えていられるのでなければ、不動明王の役割は貫徹できないのである。実はこの不動明王というのは人の一心の動かぬ所をいうのであって、その理想を象徴しているのである。そして、不動とは物を一目見てそこに心を止めないことだという。この止まらぬ心が不動智であり不動心である。そして、不動明王はその所有者ということになる。
次いでこの心のあり様をさらに説明するために「千手観音」の姿が譬えとして挙げられる。千手観音には文字通り1000の手がありその手に握られた様々な道具を用いて人々を救うとされる。仏法の慈悲と救済の表徴である。ともするとその異形のあり様に圧倒されてその姿に関心が向かいがちであるが、沢庵和尚はその内面のあり方に着目する。すなわち、千手観音が千本の手の1手に捕らわれるのなら、ほかの999の手は用をなさない。それでは多くの人々を救済できないではないか、折角の千手が無駄になってしまうのである。それでは千手観音の機能的特性をいかんなく発揮させるための内心の状態はどうあるべきなのかというと、「一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり」ということである。身一つの観音に千の手があってそれを自在に用いて衆生救済に役立てるためには心をどこにも止めないことが肝要であるというのだが、その境地を不動智というのである。そして、この境地が開けたならば、千の手があれば千の手を自在に用立てることができることを、人々に示そうとして作られた姿が観音であるという。また、一枚の葉に心をとられると残りの葉や樹木全体が見えなくなるから、一葉に心を止めず「一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候」と説き、これを得心した人は千手千眼の観音であると言われている。確かに自分のわずかな経験を顧みても、絵を描く場合にディーテールにこだわり過ぎると全体の構図やバランスが疎かになるということはある。これらの譬えの最後には、千手千眼の外観にとらわれてただありがたがったり、あるいは嘘だと非難するのではなく、このような道理を知って尊信するがよいと説かれている。
初心と達人の境地
続いて、初心の者と不動智に到達した達人の様子が比べられる。ここでの譬えは、兵法(剣術)修行である。初心者は太刀の構えもわからないのであるから心の置き場所もわからない。だから、心をどこかに止めることがない。それどころではないのである。相手が打ち込んでくれば、ただそれに何も考えず対処するばかりである。しかし、さまざまな技術を教えられてそれを習い覚えてゆくといろいろ考えて割合と不自由になる。そこを堪えて日を重ねて稽古を積むと、身の構えや太刀の取りようにも心がかからなくなり、初心の時の心のようになる。このように初心者と達人の心は似たものになるという道理があって、それは仏道修行にあっても同様だと言われる。つまり、「づゝとたけ候へば、仏とも法とも知らぬ人のように、人の見なす程の、飾も何もなくなるものにて候。故に初の住地の、無明と煩悩と、後の不動智とが一つに成りて、智慧働の分は失せて、無心無念の位に落着申し候」という状態になり、手足がひとりでに動き、まったく心を煩わすことのない境地になるという。この無念無想の境地は心がないのに鳥や獣から田地を守る「山田のかかしの位」と称せられる。
理の修行と事の修行
次に種々の修行には、理の修行と事の修行の2つがあり、理の修行でいくら理屈を合点しても、実践の場でそれが活かされなくては意味がないといわれる。その実践修行の方を事の修行というのである。
言葉に「間髪を容れず」とか「石火の機」とかいうことがあるが、仏法でも物に心が止まり残ることを嫌い、もし止まればそれは煩悩と呼ばれるけれども、川に玉を流すように流れに乗って少しも止まる心がないのを尊ぶのである。而して心がそのようになれば、間髪入れぬ行動もできるというものである。それゆえ西行の詠んだ「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に、心止むなと思ふはかりぞ」という歌の下句を兵法の要所と認得すべきであるという。
さらに沢庵和尚は禅問答に話題を移す。そこでは禅問答の応答で肝要なことは答えの善し悪しではなく、止まらぬ心を尊ぶのだと言われる。師匠の問いかけに間髪入れず、「一枝の梅花」とか「庭前の柏樹子(ていぜんのはくじゅし)」とか即座に答える。質問の要所がどこにあるかと暫く躊躇して答えるのであれば、分別に止まる煩悩である。分別の二心なく即答するのがよく、このような瞬間にある一心を神とも仏ともいうのだという。こうした巧みな説明を受けるとなるほどという気持ちになるけれども、初心の者の境地と達人の心はまったく同じかと問い直してみると、やはりそこには似て非なるところがある。
このことは福音書に述べられる「幼児の心」の深い洞察においては、神の国に入れるか否かといういっそう深刻な大問題であろう。また、禅問答の答処に関しては、学仏道の修練の結果として獲得された、いわば丸暗記的習慣化の賜物としてのオートマチックな対応と同じであってよいのかという疑問も生じるように思われる。
無心というあり方
また、こんなことも言われる。ある人が「心をどこにも止めぬようにというが、それでは心をどこに置けばいいのか」と問うた。沢庵の答えはこうである、「何処にも置かねば、我身にいっぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手の入る時は、手の用を叶へ、足の入る時は、足の用を叶へ、目の入る時は、目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり。……中略……心を一所に置けば、偏に落ると云うなり。偏とは一方に片付きたる事を云うなり。正とは何処にも行き渡ったる事なり。正心とは総身へ心を伸べて、一方へ付かぬを言ふなり。心の一処に方付きて、一方欠けるを偏心と申すなり」。
ここでの正心は妄心に対する本心、有心に対する無心と同義であるとも解説されている。この段は何物にも止まらぬ偏らぬ心境を古歌「思はしと思ふも物を思ふなり、思はじとだに思はしやきみ」(『源氏物語』第九帖葵の上の物語に出るか?)に託して結んでいる。
さらに、「水上に胡蘆子を打し、捺着すれば即ち転ず」の言葉を引く。この言は白隠禅師の『槐安国語(かいあんこくご)』などに類似の表現があるようだが、水上に胡蘆子(ころす)=瓢箪を投げ込んで手で押すとコロコロと回転して手元から逃げて何としても一所に止まらないという意味である。そのように達人の心は瞬時も物に止まらないのであって、水上の瓢箪を押すようなものだというのである。
次に「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」の語をあげる。これは『金剛般若経』にある周知の言句であり「応に住する所無くして而も其の心を生ずべし(まさにじゅうするところなくしてしかもそのこころをしょうずべし)」などと読まれている。どんな事をするにもしようと思う心が生じるとそうする事に心が捕まってしまうので、どこにも心を止めないでその心を起こせというのである。何かに止まる心から執着心が生じ輪廻もここから起こるのであり、生死の絆ともなるのであるから、仏法の方から言えばそれは捨離されねばならないものである。そうは言っても心を起こすのは自然の事である。それゆえに一所に止まらぬ無心こそ諸道の名人の極意であると説かれるのである。それはまさによく躾けられた猫のようなもので、縄をつけて引っ張っておかなくとも、雀と一緒にいて雀を捕まえないようにするのが「応無所住而生其心の文の心」であると示されている。
この段の最後に載せられているのは「柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ、ながめにけりな恨めしの世や」という慈円(天台座主、書に『愚管抄』あり)の句である。花の匂いに心を止めた自分が恨めしいと嘆く趣旨に見えるこの歌は、心を一所に止めない無心を至極の境地としていると解されている。この境地は「華は愛惜によりて落ち、草は棄嫌を逐うて生ず」という牛頭山精の言葉を想起させる。両句を生み出した心根は淡々とした無心の境、あるいはそれを理想の心地とするものであろう。
また、禅語のひとつにも挙げられる「前後際断(ぜんごさいだん)」の言句についても、前の心を捨てず、今の心を後に残すのがよくないのであり、前(過去)と今の間を切って捨てよということだと語意を説明したうえで、要するに心を止めないということだと述べている。
『不動智神妙録』においては不動智の意味するところが、多くの譬えを用いて縦横無尽に様々な方面から解説されている。それを要約すれば、不動智とは不動心であり、それは無心とも本心とも言い換えられ、その中身は何処にも止まらぬ心であるというのである。そして、この心は仏道は言うに及ばず、剣の道をはじめとした文武にわたる諸道の求める極致を示している。それは不断の精進・修練によらねば開かれない境位であり、それを実践に活かすとなると尚更に厄介な代物である。それゆえに、この書の最後にはこの歌が記されている。
心こそ心迷はす心なれ
心に心心ゆるすな