愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成29年度

報恩行(著・所長 岡島秀隆)

森信三(もりのぶぞう)という人物を知ったのは偶然のことでした。
個人的な興味から郷土の哲学者と呼べる人を探していたときに、ネット検索かなにかで見つけたのでした。森氏は愛知県生まれの哲学者、教育者で京都大学哲学科を卒業されている。
西田幾多郎先生の薫陶を受けられた方で、「全一学」という独自思想を提唱されたといいます。私の大学院時代の恩師が武内義範先生であったことから、京都大学の哲学には関心があったので、すぐさま著書の収集を始めました。最初の一冊が、『修身教授録(しゅうしんきょうじゅろく)』でした。
その後、全集が刊行されていることを知って購入しました。

さて、この教授録を改めて読んでみたいと思い目次を開いてみますと、第32講に「教育と礼」という一文がありました。
早速読んでみると、そこには「礼」の重要性が説かれていました。短い文章なので次の33講の「敬について」まで読み進みました。
2つの講義の大要を申しますと、ただ機械的に会釈をするというのでは真に礼を尽くすことにはならないと説かれています。森氏は礼の深部に「敬」がなければならないとおっしゃるのです。

それでは人を敬う気持ちはどこから生じるのでしょうか。ただその人が高い地位にいるからとか、お金持ちだからとか、年長者だからというのでは本当の人間的な尊敬の念を生むことにならないというのは当たり前のことです。
それではその人が自分より豊富な経験と知識を持っている場合はどうでしょう。森氏はそれらが単にその人の中に記憶されているからというのでは未だ本ものではないと言います。それらが血肉となってその人の「人格」になっていなければならないというのです。
しかし、そういう人格者がいまの世にどれほどいるのかと問い返されてもいます。この講義では心から尊敬する人物に対して礼を尽くすという当たり前のことが再確認されているのですが、逆に言えば、今日の世では社交辞令化した本心のない薄っぺらな礼だけが一人歩きしていることを危惧しておられるようでもあります。
それと同時に、敬に根ざした礼の大切さが無自覚なままである現状は、ひとえに今日の教育の責任であると述べておられます。
それを「教えざるの罪」と命名されています。「習わぬ経は読めぬ」の喩えのように、教えられなければ気がつかないというわけです。

宗門には原田祖岳という禅者がおられました。
明治4年、福井県小浜市の生まれです。曹洞宗大学林教授などを歴任され世寿92歳をまっとうされた宗門の大恩人です。その著作集の中に『修証義講話』があるのですが、その講説において、老師は「知恩報恩」ということを言っておられます。
『修証義』という書には第5章に「行持報恩」というのがあって、その講説で出てまいります。「正に仏恩を報ずるにてあらん」で終わる章ですから、「仏に対する恩に報いること」がテーマになっています。
この章の要点に入る前に、この「知恩報恩」の言葉が持ち出されるのですが、私にはこの言葉が「報恩」を説く前に「知恩」ということが問題であるというように響いたのです。恩という言葉は、日常的によく使われるのですが、その意味は何となくぼんやりと捉えられているのではないでしょうか。
それでなおさら、恩とは何か、何に対する恩なのかということを自覚的に捉える段階が必要だと思います。恩の内容を自覚的に問い直してはじめて、報恩という順番になるのだと思います。先に述べました、礼に先立つ敬の自覚といい、この報恩に先立つ知恩という自覚の重要性についての示唆といい、両者は当たり前に見えて無自覚になりがちなところを鋭く指摘していると思います。

最近、自分の中でときどき気になることがあります。
今は亡き恩師にどのように報いるかということです。私にもお世話になった恩ある方々がありますが、例えば、学恩ある先生に報いようとすると、何か学問的成果を残してご報告したいと思うわけです。
しかし、それさえできないうちに、恩師が亡くなってしまわれたらどうするか。最近そうしたケースが多くなってきたのも事実です。
それで、生前に叶えられなかった口惜しさは消えないとしても、そうした先師や先輩の恩にどのように報いて行くべきかということをしばしば考えます。

先に述べました『修証義』には「行持報恩」の章があります。
ここでは「報恩行」ということが説かれます。本文には「今の見仏聞法は仏祖面面の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや」とあります。
道元禅師は私たちが正法(正法眼蔵)を求めて不惜身命の決意を抱いたとしても、それが失われていたり、伝えられていないならば、我々は正法に遇うことさえできないけれども、幸いに今日私たちは正法に遇うことができるのである。「見仏聞法」が叶うというのです。それはしかし、仏仏祖祖が正法を伝承してきたおかげである。それゆえ、祖師の一つ一つの言葉や教えに感謝し報恩の気持ちを持たねばならない。
況して「嫡嫡相承(てきてきそうじょう)」の正しい教えが伝えられてきたことへの大恩に感謝し恩返ししようという気持ちを持たずにはいられないではないかと述べておられるのです。
これは仏道修行者にしてみれば自然な情であります。ちなみに仏教では「四恩」ということがいわれます。父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩です。この『修証義』の文脈では最後の三宝の恩が中心課題になっています。
また、それは正法の大恩と言い換えられているのです。ではこの大恩に報いるにはどうしたらよいのでしょうか。次いで「其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり」と述べられています。
つまり、報謝の方法は特別なことをするというのではありません。唯自分に与えられた日々のつとめを怠らずに行じることが報恩の正道であるというのです。その心構えは日々生命をおろそかにせず、自利に走らず利他に生きるというのであります。
もちろん、ここで「行持(つとめ)」と言いますのは、規矩(きく)に叶った仏道修行者の日常生活全般を指していますが、それは私たちの生き方にも通じています。私たちは日常の当たり前の生活を平凡でつまらないものと感じることがあります。会社での仕事や地域社会とか家庭での自分の役割は誰が代行しても変わらないとるに足りぬものなのではないかと考えてしまうときがあります。ところが、『修証義』では「此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし」と言葉が続けられています。
なぜこのように自分と自分の行為に確固とした意味を見いだせるのでしょうか。その理由は次のような道元禅師の言葉に現われています。

我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり、
然あれば則ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり

私たちの行いを通して仏の行いが現われます。それによって仏道が現実と繋がるのです。私たちひとり一人の仏の教えに従った真摯な行為が仏の行為そのものであります。そして、行持を介して自分と仏が繋がっていると感じるこの一体感(行持道環(ぎょうじどうかん)の実感)が私たちの行いに意味を与えてくれます。そうなれば、私たち自身の日々の行いが諸仏の種子ともなり、諸仏の行持そのものなのですから、私たちの身心は貴ぶべき価値ある身命を宿しているわけです。それゆえ、私たちの行いこそ唯一無二の「仏恩」に報いる方途ということになるのです。聖パウロは「キリストの体」ということをいいましたが、キリスト者がキリストの体となって生きる姿は、報恩行に生きる仏教者の姿勢と相似しています。

ところで、先に、先人の大恩に報いる方法への問いかけをしましたが、先人の言葉やさまざまな教えが貴重な経験として自分の血肉となって生き続けていることを自覚しつつ毎日を生きるという生き方は、この仏道における行持報恩の道と同じではないかと思います。

さて、こうした報恩行の根底には仏祖に対する深い敬意が含まれています。水野弘元(みずのこうげん)先生は東京大学や駒澤大学で教鞭をとられた宗門の大恩人ですが、『修証義の仏教』の「報恩行」の章で次のように述べておられます。

雀や亀が恩返しをしたという物語は、昔の出来事として、その事実の真偽も疑わしいばかりでなく、今日の文明世界には、そのような考え方は通用しないと考える人もあるでありましょう。第二次世界大戦後の日本では、―是は世界共通の現象かもしれませんが―権利や義務が主張されて、恩義という気持ちは、次第に忘れられているようにさえ見えます。…中略…今でも「ありがとう」、「すみません」、「お蔭さまで」という言葉は、かなり用いられていますが、それは形式的な場合が多く、その本来の意味で、まごころからこれを用いている場合は少ないように思われます。それは人に対しても、物に対しても、心から感謝するということが、うすれてきているためでありましょう。

こうした慨嘆の情は森信三先生の言葉にも相通じるところがあります。私たちは、こうした先人たちの言葉を耳にしながら、あまりにも無神経に聞き流してきてしまったのではないでしょうか。本学の「建学の精神」に「報恩感謝」の語が含まれています。感謝の気持ちは人間の謙虚な気持ちのあらわれとしてとても大切なものですが、それは報恩行という実践に繋がって真に実を結ぶということを再認識しました。そして、こういう考え方は、仏門に限られることではなく、一般社会においても普遍的道徳心情として失われてはならないものだと思います。

(教養部教授)

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