愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成30年度

アスリートの禅体験(著・所長 岡島秀隆)

2020年の東京オリンピックに向けて、若いアスリートの躍進が日々伝えられている。この機会に、アスリートと禅について考察してみようと思う。

川上哲治(かわかみてつはる)の禅体験
「赤バットの川上」「弾丸ライナー」「打撃の神さま」などと称され、読売巨人軍を日本シリーズ9連覇に導いた名監督、川上哲治の参禅体験が記された回顧録的著書に『禅と日本野球』がある。川上氏は正力松太郎氏に勧められて参禅した。その参禅道場は、尾張の地にもほど近い岐阜県伊深の正眼寺(しょうげんじ)である。この臨済宗の名刹に梶浦逸外(かじうらいつがい)老師を訪ねて参禅した。その経験がV9の原動力となったと信じる氏の心境を先ず訪ねてみよう。

老師の二つの教え
「この一ヶ月間、梶浦老師が私に教えてくださったことは、せんじつめると、「無心になるくらい徹底してやる」ということと、その反対ともとれる「こだわるな」という、二つのことである。

言葉でいうだけでなく、本当に寝食を忘れるくらい徹底して、そのものになりきってやれば、必ず何か体得するものがあるということだ。

そして、これとは反対に、真剣に物事に取り組むのはいいが、真剣さのあまり、そのことにこだわって身動きもできないようになってはいけない。だから、一瞬、一瞬、真剣に取り組んでいくが、その一瞬がすぎたならば、すぐ切り替えていく。その切り替えが大事である、とらわれてはいけないというわけだ。

元々時間は一瞬も留まらない。過去に流れたことを、あれこれ気にかけても戻ってはこない。将来のことを、いろいろ思い悩んでも、一体何が起こるかわからない。だから、歴然と存在している今、現在に集中するよう、気持ちを切り替え、また、切り替えてことに当たることが大事であると教えられたのだ。

この二つの教えは、一見矛盾しているようにも見える。しかし、一日に夜と昼があり、人生に生と死があるように、対比するものがあって総体的に一つになるという考え方なのである。人間の手は二本、足も二本、目も耳も二つだ。目が二つあるからといって、モノが二つに見えるものではない。ここに一つの真理があると思う。不二、二つで一つ、一つで二つ。主観と客観は不二だ。禅の立場からいうと、これを「不二の妙道」という。」

長文の引用だが、心の持ち方についてのこうした教えは、よく禅の教示に登場する。誠に「融通無礙(ゆうづうむげ)」「甚深微妙(じんじんみみょう)」、「こだわりなさ」の極致である。「無執著」「放下著(ほうげじゃく)」である。だが、この心地にばかりこだわるのも今ひとつである。というのも、執着は時としてやる気・意欲の源となるからである。放下への執着心も放下するのでなければならない。そこに「遊」の境地が開けるのである。一休禅師の機転の利いた頓知も、こうした境地から生まれるのであろう。ちなみに、梶浦老師の後任として臨済宗妙心寺派管長職についた山田無文老師に『不二の妙道』の一書がある。

禅の道と野球の道
「私は選手時代、いかにして打つか、いかにして首位打者のタイトルをとるかといった、個人的な欲求から努力をした。職人的な発想で、自分のほうから世界を見ていたわけだが、坐禅をしたおかげで、大きな世界から客観的に自分を見ることができるようになった。そうすると、自分がいかに小さい存在であるかがわかり、それとともに、自分以外の多くの人たちの恩恵によって、この世に生きていることがわかるようになった。これが、私のチームプレー尊重という考え方の起源である。
…中略…
いいかえれば、坐禅によって監督の職責をまっとうできたし、坐禅によってチームづくりをすることができたのである。

したがって、「あなたは、坐禅によって何を学んだのか」と聞かれたら、私は「すべて」と答える以外にはない。私の野球には、内側に坐禅そのものがつまっていたといえるだろう。」

昨今、メンタルケアなどの方面から坐禅など瞑想の効果が取り上げられることは多い。科学的検証も進んでいる。だが、このような述懐を読むと、禅がひとりの人間の人生に長期間関わり、広く深い影響を与えていることがわかる。これらの叙述は、禅の坐法と教えがひとりの人間の自己探求の道のしるべとなり得るものであり、むしろそこにこそ禅の本分があることを示しているように思われる。

アスリートの生涯は長い。現役時代のピークを過ぎても人生は続く。たしかに現役時代に瞑想を効果論的観点から考えることは自然なことである。いっぽうで川上氏の言葉は、一連の生涯時間の中で禅と出会い、禅を活かし切った人間の姿をよく表している。

空手と禅の共通点
『空手と禅』の著者、湯川信太郎氏の専門は、臨床社会心理学・感情心理学・身体心理学である。また、著作当時、空手道系東流(けいとうりゅう)六段、系東流空手道正修館常任理事・准師範を務め、筑波大学空手道部顧問、日本武道学会会員。感情制御・ストレスマネジメントと武道・武術の関係を身体心理学(特にマインドフルネス)から捉える独自の観点で、「空手と禅」というテーマを中心とした武道論や身体技法をブログや大学授業などで展開していると著されている。

「武道は禅である純粋な意味での武道とは、したがって、古来より伝わる「形」をただひたすらに稽古する、ただそれだけに没頭する、そうして身体の現在性を追求することを意味します。これは即、禅そのものであり、したがって、純粋な武道とは禅である、ということになります。
…中略…
こうした在り方をふまえれば、必然的に、武道修行とはどうあるべきか、また、武道家とはどうあるべきか、ということの答えは導かれます。禅と同じく、武道にもまた目的はありません。ただひたすらに武の道を歩む、ただそれだけです。何かを求めるということは、そこに欲や執着があるということであり、そうした欲や執着は得てして満たされないために、私たちは苦しみを覚えます。つまり、求めるから苦しいのです。そうした欲や執着から離れて、ただひたすらに今ここに在ることを目指すのが禅であり、また武道です。
…中略…
こうして修行する武道は、坐禅同様に、身体性を重視しています。したがって、日々修行する稽古者は、毎日が自己の身体との対話となります。また、師と弟子との対話は、そうした身体を通じた対話となります。つまり、武道家たるものは、常日頃から、自己の身体性、ひいては他者の身体性を意識しているはずです。それは、頭(心、言葉)による意識ではなく、身体による意識、実践的な体感です。
こうした意識の拡がりは、いくら頭で考え続けても限界があるでしょう。
…中略…
もちろん、これは体感であり、言葉にしようとすると、指の間からスルリと抜け落ちるかのように、つかみどころがないかもしれません。ただ、武道を続けていれば、そこで得た様々な体感を通して、自分の生きているこの世界をより深く理解することができるようになるはずです。このように、武道とは生きるための方法論を提供するものであるとともに、世界を理解するための方法論でもあります。そして、当然、このことはそのまま、坐禅にも当てはまることです。」

湯川氏はこのように述べて、武道と禅の共通点を示す。只管に打坐する禅の道と武道の修練は、「形」と身体の現在性を重んじる点、無目的と無執着を理想とする点、実践的体感を優先して身体を用いた師資の対話、世界との対話という関係性と方法論を重視する点において、一致を見るというのである。

身心の統一と安心
実感からすると、人が心と体を理性で区別しなくても、ふつう問題は生じないし、日常的には心が優位で体を支配していると感じる。そうした状況では、体は意識されないことが多い。しかし、心が体を支配しきれないことに気付くことがある。そこではじめて心は体を意識する。そうなると、人間は何らかの違和感を感じるようになり、その解消を願うようになる。身体能力の限界に挑むアスリートは、一般人よりもそうした身心のアンバランスを感じる機会が多いかもしれない。身心の統一は、かかる違和感解消の一つの到達点である。

もう一つの例をあげる。『禅ゴルフ』という、如何にも奇をてらった名前の書物である。著者はジョセフ・ペアレント。1950年アメリカ生まれの心理学者で、新しいタイプのメンタルトレーナーとして注目されており、『ゴルフダイジェスト』誌で世界のゴルフ界におけるメンタル・ゲームのエキスパート十傑の一人に選出されたそうである。

次のような文章がある。

「要するに、緊張と深呼吸は相容れないのだ。体が緊張していれば、深呼吸はできない。深く呼吸すれば、緊張はほぐれる。
…中略…
そして最終的には、普通なら緊張と不安を引き起こすような状況に、逆に、リラックスして落ち着いた対応ができるようになるのである。」

「体と心がスウィングのために一体化すると、それぞれの目的と存在理由と焦点が一つになる。両者は、同じ場所で同じ時間に一つのユニットとして機能する。
…中略…

では、心を過去に戻したり、未来に送り込んだりすることはできるだろうか。もちろん、できる。しかし、心は現在という時点でも機能し得る。そして、心が現在≠ノあって初めて、われわれの体と心は一体化するのである。」

これらの文章の背景に、禅における「身心一如」の心境や「而今(にこん)」を重視する立場が見透かされるように思うのは、私ばかりではあるまい。著者は確かに禅を実参実究した経験に基づいているように思われる。ゴルフはメンタルスポーツである。それを踏まえたゴルファーの身心の構えに関する適切な助言であるといえよう。

ところで、坐禅は心と体の対話である。そして、その対話の先にある身心の統一が人間の幸福感に繋がるのは明らかである。その理由の一つを推測してみると、「尽十方界真実人体(じんじっぽうかいしんじつにんたい)」の禅語が示すような天地身心、全体と個の融合一体感からくる安心ということになるのではないか。

道元禅師の「ただ わが身をも 心をも はなちわすれて 仏のいへに なげいれて 仏のかたより おこなわれて これにしたがひ もてゆくとき ちからをもいれず こころをもついやさずして 生死をはなれ、仏となる」といった境涯は、身心の安定状態を投影している。それは、たゆまぬトレーニングを通して「身につけられる」アスリートの理想とする調和の取れた身心感覚とも相通じる所があると思うのである。

(教養部教授)

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