良寛の「捨」
良寛の人間像については、多くが語られている。良寛はその宗教性よりも芸術性の面を評価すべきであるとか、良寛は道元の教えを厳しく護持実践しようとしながら、弘法救生の教育者に成りきれない自己に対してコンプレックスを感じていたとか、色々に解釈せられている。いずれの見解にも首肯し得る点がある。一方自分は良寛の「説教じみていない」ところや「人を安心させ、こわばらせない」ところが好きである。ゆっくりと豊かな時間を吸い上げて育った良寛がそこに感じられるからである。それにしても良寛の詩作の才は素晴らしい。先ずはそこから考えてみよう。
さて、良寛がどのような生き方をしたかを考えると、生来の控えめな性格から来るのであろうが、豊かな教養を表面に出さず、飾らぬ暮らし向きに心がけていたようである。一言でいえば「生活の慎ましさと真面目さ」が良寛流の生き様の中核をなしているといえよう。そうした生き方に徹するようになった世間的因縁や本人の性格というものはどのように分析できるかといった点は、ここでは問わない。ただ、良寛がそうした生き方の意義をさとり、そうした生き方に必要な手段の幾ばくかを学びとったのは、出雲崎を離れて、玉島の円通寺に送った国仙和尚門下の修行生活の時期であったと思われる。
円通寺
自来円通寺
幾度経冬春
門前千家邑
更不知一人
衣垢手自濯
食尽出城闉
曾読高僧伝
僧可々清貧
円通寺に来たってより
幾度(いくたび)か冬春を経たる
門前 千家の邑
更に一人を知らず
衣垢(あか)つけば手自(てずか)ら濯(あら)い
食尽きれば城闉(じょうえん)に出ず
曾(かつ)て読む高僧伝
僧可(ソウギャ)は清貧を可とす
当時を詠った漢詩には古人を思い、托鉢に日々の食を得る清貧の修行道が鮮明に描き出されている。師の教えを通して宗祖道元の遺戒を誠実に実践する良寛の姿が思い浮かばれる。この時期の研鑽が良寛の土台に成っていることは間違いないところである。ただ、その後の国仙の死や父以南の死を経て良寛の心境に多くの機微が加えられて行ったことは明らかであろう。
修行時代の良寛には仏道の探求においても理想主義的傾向がなかったとはいえない。そうした衝天の志気を持った良寛であったが、一旦道場を出離してみれば、浮世離れの自分の理想など世俗の現実の中で瞬く間に倒壊したであろうし、まして師の逝去や父以南の入水など、無常の悼みを体験することで自らの内心が大きく変化して行ったであろうことは想像できる。また、幾とせを過ぎて北国に帰郷してみれば、懐かしい人々との暖かな再会を期待した良寛の眼前には、それが自分の内心の変化の故か、故郷のしがらみの変化に原因するか、おそらく両面相混じってのことであろうが、大きな環境の変化にすぐには順応できない自分がそこにはあったのかもしれない。
越にきてまだこしなれぬ我なれや うたて寒さの肌にせちなる
そのような状況に置かれて、良寛は体得した道元道を頼りとしながらも、独自の道を新たに歩み出したことであろう。そうした良寛の後半生には自らの境遇をどこまでも受容しつつ、それでも清貧の理想を実践せんとする意思が見て取れる。その暮らし向きは「五合庵」での生活を詠った詩によっても知ることができる。
索々五合庵
実如懸磬然
戸外竹一叢
壁上偈若干
釜中時有塵
竈裏更無烟
唯有隣寺僧
仍敲月下門
索々(さくさく)たり五合庵
実に磬(けい)を懸(か)けるが如く然り
戸外 竹一叢
壁上 偈(げ)若干
釜中時に塵あり
竈裏(そうり)更に烟なし
唯隣寺の僧あり
仍(な)お敲(たた)く月下の門
また、長岡藩主の牧野忠清が菩提寺の住持に迎えようとした折に作ったとされる句にも良寛の質素な暮らしの様子が窺える。
焚くほどは風が持てくる落葉かな
実に良寛の詩句には、はた目に如何にもの悲しくあわれと映ろうとも、本心にある「総脱落」の捨て尽きて清々しい境涯が多く示されている。
生涯懶立身
騰々任天真
嚢中三升米
炉辺一束薪
誰問迷悟跡
何知名利塵
夜雨草庵裡
双脚等閑伸
生涯身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう)として天真に任す
嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺(ろへん) 一束の薪
誰か問わん迷悟の跡
何ぞ知らん名利(みょうり)の塵
夜雨 草庵の裡(うち)
双脚(そうきゃく) 等閑に伸ばす
大拙翁の卓説
かつて鈴木大拙は「貧乏論」の中で宗教と貧乏の関係について言及している。一口に貧乏といっても一様ではないが、そのひとつのタイプとして宗教者の求めた清貧の生き方を考察したのである。まず、そこで大拙の念頭にあるのは西洋にあっては聖フランチェスコであり、東洋にあっては桃水や良寛といった人物である。
アシジのフランシスのような貧乏、桃水や良寛のような貧乏は客観的に見ても、随分徹底したもので、これらは貧乏の最も理想的なものと見てよかろう。而して此種の貧乏には誰も彼も一度はなって見て決して損の行かぬもの、誠に味わえば味わうほど深い味が出るところのものであろう。或は宗教の極意は此種の貧乏を体得するに在るとも云えよう。固より宗教の全部が此処に在ると云うのではない。が、その大事に一部分は確かに内外淨麗麗の貧乏生活に在りと云うて差支えない。
(『鈴木大拙全集』19巻)
それでは、宗教的貧乏生活の意義はどこに存するのであろうか。
貧乏と云うと経済上のことのように思うが、宗教上の貧乏は、実に霊の自由と云う意義になるのである。それ故、貧乏主義は自主自由の又の名に過ぎぬ。「吾法において自在を得たり」と云うのは、此貧乏を体得したと云うことなのだ。フランシスは、それ故に、霊の自由のために奮い起った勇士に外ならぬ。
(『鈴木大拙全集』19巻)
また、貧乏主義からは色々の功徳が湧いてくるといい、その第一は「謙虚の徳」であるとし、さらに謙虚は「素純」の義、禅語の「淨麗麗」であり、それは「無心」へと連なるとも述べている。だが、聖フランチェスコの生き方は中々に真似することのできぬものであることも付言している。
それは何れにしても、フランシスの一生は不思議な一生だ。宗教的天才の出処進退は凡人では窺知れぬ。只遠くから眺めてあこがれの対象としておく位が、せいぜいの処である。が、その人の伝記は何度読んでも飽かぬ、読むたびに新たな意味が見える。
(『鈴木大拙全集』19巻)
しかも、大拙は貧乏を全面的に礼賛する訳ではない。それは文の諸処にうかがえる。
一概に貧乏はよいとも云えぬ、色々と項目を挙げて勘定したら差引貧乏は人格涵養に望ましからぬものかも知れぬ。
(『鈴木大拙全集』19巻)
上の文には一般社会を視野にいれながら、フランチェスコのような例が稀有であることが示唆されている。
一方、大拙はフランチェスコの暖かな愛の精神が、禅者の寂然不動の心などとは重なり難い感があると指摘するが、それでは日本の宗教者にはそうした生き方を我々に示す者はいないのだろうか。
たとえば、一遍や良寛の生き方はそういう傾向を示しているのではなかろうか。生前に鎌田茂雄博士は一遍を「孤絶の人」と称して文豪武蔵と比肩したことがあった。両者は各々孤絶であったが、武蔵には人を寄せ付けぬところがあり、一遍は孤絶ながら、人に慕われるところがあったという。良寛も人に好かれるところがあり、孤独を愛しつつも人を引きつけるところがあり、その点では一遍に親近する気質を持っていたように思える。いずれにせよ、一遍と良寛はさまざまな相違があったにもかかわらず、捨身の生き様ということにおいて明らかな親近を有するのである。
芭蕉の軽み
松尾芭蕉の最晩年の境地は「軽み(かろみ、かるみ)」と云われる。これについて、唐木順三は『無心』のなかの「一遍の称名」でふれている。軽みとは〈重くれ〉〈甘み〉〈念入り〉〈ねばり〉〈入(いり)ほが〉の対立概念として,平明・率直・素朴など俳諧固有の味わいを意味するようだが、如何なる構えもない自由な心地をいう。
唐木はそのことを宗教者の心境に照らし合わせて、法然や親鸞も、道元や日蓮も重く、その理由は彼らが何かを背負っているからだとする。一宗一派の開祖は自分の念いとは別に背負うものがどうしてもできる。ところが一遍は宇宙のリズムと共鳴するように何時どこにおいても軽やかに唱い踊る。そこには、衆生との隔たりがなく、増して説教臭い上から目線はないというのである。
良寛にも同様の境涯がある。それは子どもと戯れ、村人と盆祭りに興じるような良寛に関わる逸話や天真爛漫な良寛の書体を見れば、充分に窺えるのである。
*麗麗 はっきりとしたさま。うるわしくきわだっているさま。
良寛さんの真相
『良寛和尚逸話選』という書を改めて読んでみた。そこには良寛の多種多様な姿があった。記憶力が実に優れていて焼失した大切な家系図を見事に復元して見せたかと思うと、忘れ物が多くていつも持ち物の書付を所持していたとか、人を呆れさせるほどの非常識で人を閉口させたり、時には不快にさせたりしたが、どこか憎めぬところがあったり、貧乏で蓄えは多くはなかったが、後年は揮毫(きごう)をよく求められることもあって、少しの手業はあったと思われる節があり、葬儀の支度なのか懐中に30両の準備があったと伝えるところもあった。こうした逸話は良寛の貧の徹底がどれほどのものであったかを疑わせる向きもあるが、ともかく言えることは、良寛が富に頓着がなかったことと、貧しい生活にもかかわらず間違いなく心は豊かだったということである。飽食の時代に失われがちな心の気高さと豊かさと、人を思う優しさと、そして何より天真爛漫で無碍自在の生き方を良寛和尚は教えてくれる。
[文中良寛詩は主に『禅入門 良寛』講談社による]
(教養部教授)