愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  令和2年度

禅の教法に学ぶ(著・所長 岡島秀隆)

禅の語録(ごろく)や公案(こうあん)には、歴代祖師のさまざまな教法が記されている。まさに多種多様、変幻自在の説示である。それがある傾向や型を持つということになると、それを家風(かふう)とか、禅風(ぜんぷう)、宗風(しゅうふう)などと呼ぶわけである。

時に、そういう師家(しけ)のスタイルがいたって顕著に現れて、世に知られるというものがある。今風に言えば〇〇メソッドということになろうか。まず、いくつかの例を紹介しようと思う。

(1) 臨済(りんざい)の喝

臨済義玄(ぎげん)(?1867年)は、中国唐代の禅僧で、五家七宗(ごけしちしゅう)の一つに数えられる臨済宗の開祖である。諡(おくりな)は慧照(えしょう)禅師。俗姓は 邢(けい)氏。曹州南華県(山東省菏沢市東明県)の出身という。黄檗希運(おうばくきうん)に師事すること3年の後大悟した。「臨済の喝」と称せられ、大喝を用いる峻烈な禅風で知られた。その言行は弟子の三聖慧然(さんしょうえねん)によって『臨済録』にまとめられている。

臨済禅師の教導手段は何かにつけて一喝を食らわしたと伝えられている。その様子を『臨済録』に求めると、次のような言述がある。

上堂。僧有り、出でて礼拝(らいはい)す。師便(すなわ)ち喝(かっ)す。僧云(いわ)く、老和尚、探頭(たんとう)すること莫(な)くんば好(よ)し。師云く、你什麼(なんじいずれ)の処に落在(らくざい)すと道(い)うや。僧便ち喝す。

又、僧有り問う、如何(いか)なるか是れ仏法の大意。師便ち喝す。僧礼拝す。師云く、你好喝(こうかつ)と道うや。僧云く、草賊大敗(そうぞくたいはい)す。師云く、過(とが)は什麼の処にかある。僧云く、再犯容(さいぼんゆる)さず、師便ち喝す。

(上堂すると、一人の僧が進み出て礼拝した。すかさず師は一喝した。僧「老師、探りを入れるのはやめてくださいよ」。師「お前は今の喝はどこに収まったと思うのか」。すると僧は一喝した。

また、一人の僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところをお伺いしたい」。師は一喝した。僧は礼拝した。師「お前は今の喝はいい喝だったと思うのか」。僧「山賊はぼろ敗けです」。師「その敗因はどこにある」。僧「二度と賊をはたらいてはならぬなあ」。すかさず師は一喝した。)

このような具合で、「喝」は師匠からだけ発せられるのではなく、師弟相互に発せられる。まるで問答を進める合いの手のようでもある。ちなみに臨済の仏法についての見識は広く深いもので、上堂以外の場合は懇切丁寧に相手に言って聞かせる。

また、「臨済四喝(しかつ)」と言って「喝する」行為にも色々な意図があって、単に恫喝して相手を威嚇して優位に立とうとしたり、心機一転、場の気分を変えるために叫ぶとかいう理由ばかりではない。『臨済録』「勘弁(かんべん)」によれば、ある時の一喝は魔を払う「金剛王宝剣(こんごうおうほうけん)」のような一切の分別心(ふんべつしん)を裁断する鋭さと凄みがあり、ある時は地にうずくまって獲物を狙う「金毛(こんもう)の獅子(しし)」のように細心さと激しさ、一発必中の威力があり、またある時は、魚をおびき寄せる竿や仕掛けのように周到に相手の力量を見抜くのであり、四つ目の一喝は自在無礙(じざいむげ)の境涯から発せられる「喝の用さえなさない一喝」であるという。禅師は一喝を臨機応変に使い分けているのである。

師、遷化(せんげ)に臨む時、坐に拠(よ)って云く、吾(わ)が滅後、吾が正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を滅却(めっきゃく)することを得ざれ。三聖出でて云く、争(いか)でか敢(あ)えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。師云く、已後(いご)人有って你に問わば、他(かれ)に向かって什麽(なん)と道うや。三聖便ち喝す。師云く、誰か知らん、吾が正法眼蔵這(こ)の瞎驢辺(かつろへん)に向(お)いて滅却せんとは。言い訖(おわ)って、端然(たんねん)として示寂す。

(師は臨終の時、威儀を正して坐って言われた。「わしが亡くなったあと、わが正法眼蔵を滅ぼしてはならぬぞ」。三聖が進み出て言った、「どうして我が師の正法眼蔵を滅ぼしたり致しましょう」。師「もしこのあと、たれかがそなたに問うたならば、どう答えるか」。そこで三聖は一喝した。師は、「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」と言い終わるや、端然として亡くなられた。)

この臨済禅師の臨終に当たってのやりとりで、禅師の正法眼蔵(教えの核心)が「喝」の一事にあることがわかる。この一文を見ると、臨済が嘆きながら息を引き取ったように見えるが、そうではなく、三聖慧然に相伝の心ありと認めて逝かれたのであろう。

(2) 徳山(とくさん)の棒

徳山宣鑑(せんかん)(782―865)は、中国の唐代の禅僧で、姓は周氏。はじめ律や唯識(ゆいしき)を究め、また『金剛経』を得意としたので「周金剛」と称されたりした。のち天皇道悟(てんのうどうご)の法嗣(はっす)、龍潭(りゅうたん)に禅を学んだ。また、唐、武宗(ぶそう)の法難を独浮山の石室に隠れたという。その摂化(せっけ)は、徳山の棒と称されるほど厳格であった。諡は見性(けんしょう)禅師である。

徳山禅師の教導の様子を『拈評三百則不能語(ねんぴょうさんびゃくそくふのうご)』の中から紹介する。

徳山、衆に示して云く、問えば即ち過(とが)有り、問わずば又乖(そむ)く。僧有り、出て礼拝す。師便ち打つ。僧云く、某甲(それがし)話も未だ聞かず、甚(なん)と為(し)てか打つ。師云く、汝が口を開くを待つは什麼(なに)を作すにか堪(た)えん。

(徳山宣鑑和尚は大衆(だいしゅ)に示して言われた。「問えば過があり、問わなければ又乖くことになる」。一人の僧が前に進み出て礼拝した。和尚は棒で打った。僧が言うに、「わたしは話もまだ聞いていないのに、和尚は何ゆえに打たれるのか?」。和尚が言われた、「お前が口を開くのを待って何ができるというのか」。)

鼎州(ていしゅう)徳山の見性大師。小参(しょうさん)に衆(しゅ)に示して云く、老僧今夜答話(とうわ)せず。問話(もんな)の者に三十棒。時に僧有り、出て礼拝す。師便ち打つ。僧云く、某甲話も他(ま)た未(いま)だ問わず。甚(なん)に因(よ)ってか某甲を打す。師云く、儞(なんじ)は甚の処(ところ)の人ぞ。僧云く、新羅人(しんらにん)。師云く、未だ船舷(せんげん)に跨(また)がらず。好し三十主丈(ママ)を與(あた)えん。

(鼎州徳山の見性大師が、小参に大衆に示して言った。「わしは今夜一切答えない。問うた者には三十棒じゃ」。その時一人の僧が出てきて礼拝した。和尚は打ちすえた。僧が言うには「某甲はまだ質問しておりません、なぜ私を打つのですか?」。和尚は言った、「おまえはどこの人じゃ?」。僧は言った「新羅人です」。和尚は言った、「まだ船べりに跨りもしていない。好(よ)かろう、三十棒を与えよう」。[別訳:まだ船に乗らん前に、もう三十棒を食らっておる。])

このように徳山は、痛棒(つうぼう)を用いての接化(せっけ)を常に行った。しかし、打たれた者の受け取り方は様々だったようである。家風が合わないということもあったと思われる。道元は、あまり徳山を買っていなかったようだが、臨済については高く評価していた(『正法眼蔵』「行持上」巻)。

(3) 倶胝一指

倶胝(ぐてい)和尚は婺州金華山(ぶしゅうきんかざん)(浙江省金華市)の人である。詳細は不明だが、馬祖下(ばそか)の杭州天龍(てんりゅう)和尚に付いて「天龍一指頭(いっしとう)の禅」を嗣いだという。

『無門関(むもんかん)』に次のような逸話がある。

倶胝和尚、凡(おおよ)そ詰問あれば、唯(た)だ一指を挙(あ)ぐ。後に童子あり、因(ちな)みに外人(げにん)問う、和尚何の法要をか説く。童子また指頭を竪(た)つ。胝聞いて遂(つい)に刃を以て其の指を断つ。童子負痛号哭(ふつうごうこく)して去る。胝また之(こ)れを召(しょう)す。童子首を廻(めぐ)らす、胝却(かえ)って指を竪起(じゅき)す。童子忽然(こつねん)として領悟(りょうご)す。胝、将(まさ)に順世(じゅんせ)せんとす。衆に謂(い)って曰(いわ)く、吾れ天龍一指頭の禅を得て、一生受用不尽(じゅゆうふじん)と。言い訖(おわ)って滅を示す。

(俱胝和尚は、誰かに仏道を問われると、決まって指を一本立てて見せていた。和尚が外出中のある日のこと、寺に訪問者があり、留守番をしていた童子に「寺の和尚の日頃の教法はどのようなものか」と尋ねた。和尚の日常を見聞きしていた童子は指一本を立てる仕草を真似して「和尚はこうやっている」と、少し自慢げに言った。寺に帰った和尚は、そのことを聞いて(得意げに童子が話したのか、見ていた誰かが告げ口したのかはわかりません)、童子を呼びつけ、即座にその可愛い指を切り落としてしまった。童子は痛がり泣き喚いて逃げ出した。その後ろ姿を和尚の声が追いかけた。「おい!」。反射的に振り返った童子の目に指一本立てた和尚の姿が映った。その時、童子は忽然と悟るところがあった。ところで、和尚は亡くなろうとする時に「わしの一指頭の禅は、師の天龍和尚から受け継いだものじゃ。一生かけても使いきれなんだわ」。そう言って息を引き取った。)

(4) 偉大なるマンネリズム

臨済、徳山、俱胝の三師の教法はそれぞれ個性的だが、誰に対しても一律で形式化されており、ひとつ間違えれば、教える方の手抜きを誘発し、また教えを受ける側にも「いつも通りだ」という油断を招きかねない。禅問答に緊張感が欠けてしまったら、己事究明(こじきゅうめい)は進まないし、それはまるで茶番劇である。

しかし、このマンネリズムの中から、生まれるものもあると思う。こうした形式化された問答から生み出される創造がある。師の変わらぬ振る舞いに答える受け手の心中にその鍵はある。つまり、師の行為をどのように受け取り、それにどのように答えるかという「工夫」の中に、この創造と飛躍の秘密はあるのである。師の行為はその「引き金」にすぎない。そして、良い師というのは相手の心中を的確に見極めて、変わらぬ「伝家の宝刀」を抜くのである。「偉大なマンネリズム」とはそういうものではないだろうか。師の行為は「自分を映し出す鏡」なのである。

さて、昨今の私たちの日常を振り返ってみると、学校の先生は毎年同じカリキュラムを同じように教えているように見える。お坊さんは毎日同じお経を読んでいるし、サラリーマンは何かと日々のルーティンワークに明け暮れているように見える。それらをつまらない退屈な事とか、あるいは意味がないマンネリズムとみなすのは簡単である。だが、そういう変わらぬ日常の中に新しい発見や活き活きした生命を感じ取れたら、それは何と素晴らしいことではないか。

この一年余り、前代未聞のコロナ禍に遭遇している私たちは、相変わらずの日々の暮らしに疲れかけている。しかし、これは日常生活の中にある自分たちのルーティンに、生きる意味を再発見する千載一遇のチャンスをいただいたのかもしれない。各々が自分と世界の姿を見直し、例えば、毎日交わされるありふれた挨拶の言葉や見慣れた風景の中に眠っている大切なものを発見できる宝探しの達人になりたいものである。

こう考えてくると、禅宗祖師の古き言行も、現代を生きる私たちに繋がって、生活のヒントを与えてくれるように思える。

(教養部教授)

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