愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  令和3年度

禅語と学生(著・所長 岡島秀隆)

縁あって医学生に講義を行なっている。その講義では宗教と医療に関連する内容も取り上げているが、宗教に関することは彼らにとって一般教養であり、むしろそういう異分野のこととして新鮮に映るらしい。この一期一会の体験の中で色々考えさせられることがある。講義時間中は、昨今のコロナ禍ということもあり、一方通行的な授業を行なっているのだが、提出された課題レポートなどを読んでいると、考えさせられる返答に出会うことがある。

例えば、授業では禅仏教の歴史に登場する名僧たちの言葉を紹介したのだが、それらに触れた学生の感想はとても率直で、驚かされることもしばしばであった。まさに「後生畏る可し」である。

少し詳しく述べると、彼らは、まったくと言って良いほど先入観がなく、その分素直に忌憚(きたん)なく感想を吐露してくれる。そういう感想を読んでいると、もちろん例外はあるのだが、宗教に違和感や胡散臭(うさんくさ)さを持つ若者が多いのではないかというこちらの想像はあまりあたっていない気がしてくる。

次に、彼らは大変合理的な考えを持っていて、こうした先人賢者の言葉を自己のこれからの生き方に生かそうとする。また彼らは、宗教的な思惟やそこから生じた言語表現を、異質な世界のものと受け取って、かえって純粋な好奇心から捉えようとする傾向がある。

それゆえ、逆に私たちが学生から学ぶことも多い。彼らは名僧たちの言葉を異なる視点から柔軟に理解しようとするからである。

次のような言葉がある。

世の中は 何にたとえん 水鳥の はしふる露に やどる月影

この『傘松道詠(さんしょうどうえい)』に収められた道元禅師の歌を紹介すると、そこに描かれた情景を純粋に美しいといい、そこに示される世界観を解説すると、月夜の水辺で嘴(くちばし)をふるう水鳥の姿と飛び散る小さな水滴の煌(きら)めきに感嘆し、その「飛沫のひとつ一つに宿る世界」という幻想的なイメージとその儚(はかな)さをしっかりと理解し受け止めてくれる。

また、彼らは日常に潜む矛盾を躊躇(ちゅうちょ)なく戒める言葉に敏感に反応する。彼らが興味を持った言葉の中には、次のようなものがある。

七歳の童児も我に勝(まさ)るる者は、我は即ち伊(かれ)に問わん。百歳の老翁も我に及ばざる者は、我は即ち他に教えん

『趙州録(じょうしゅうろく)』に見られる趙州従諗(じゅうしん)の言葉である。人間をその能力で評価しようとする能力主義が叫ばれて久しいが、日本社会にはそうした評価の仕方は未だ浸透していないのが実情であろう。確かに、人間の能力は多様で、それらを総合的に評価することは難しい。年功序列のわかりやすさに比べて、厄介なのであろう。

しかし、特に若い人たちには現代社会のこうした状況への不満が潜在しているように思える。それゆえにであろうか、趙州禅師のこの言葉にひかれた学生は多い。ただ、学生の感想の中には、単に能力主義を肯定するというのではなく、それを推進する前提に、より根源的な人間性を見ているものがあった。つまり、能力による評価が容認される前提に人間の「謙虚さの自覚」がなければならないというのである。

道元も「仏法を修行し、仏法を道取(どうしゅ)せんは、たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも、すなわち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生(しゅじょう)の慈父(じふ)なり」と述べて、この趙州禅師の言説に同調している。むしろ、老若の差に加え、男女の違いも意識して、さらに一歩を進めている。当然両者の意図しているのは仏道修行の心得ということであるが、学生はこれらの言説を一般社会のコンテクストに移し替えて考えるのである。

もう一つの例を挙げよう。

目近きことを知らずとて、人を恥かしむべきにあらず。めずらしきことを一句知りたりとて、人を高くみるべきにもあらず

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
『東海夜話(とうかいやわ)』

この言葉にも多くの学生の反応が寄せられた。当たり前の警句のようだが、誰もが自分たちの日常の中にありがちな場面を想起する。私たちは時世の移り変わりの中で暮らしながら、日々新しい情報に遭遇する。時代のトレンドは巡り巡って繰り返しているという主張も一方にあるが、私たちはそれぞれの世代で多様な出会いを繰り返しているともいえる。そういう時の流れの中で最新の情報を知らないものがいると、私たちはそれを無意識に非難したり、イジったりしている。「大した問題ではないけれど」と思いつつも、わずかばかりの優越感と軽蔑の気持ちを持って心の中で嘲笑する。

そして逆に、目新しいことを知っている者に会うと、少しの敬意と自己卑下の気持ちを込めて「へえ〜、すごい⁉」という。

こういう気持ちを誰もがどこかで経験している。それは心中の秘事で終わることがほとんどだけれど、表情に現れることもある。そういうデリケートな気持ちに反応する学生たちがいて、この沢庵和尚の言葉に反応したと考えると、複雑な思いに駆られたのは事実である。

ある者は「こうした言葉は、必ずしもうまく人生を生きていない人々には励みになるし、順調に人生を生きる者にも自己を戒める言葉となりえる」と述べていたが、一部の人間や一方的な薫陶(くんとう)ではなく、上にも下にも右にも左にも各様に受け取られ多様な示唆を与える金言と考えられているのであろう。

最後に再び道元の言葉をあげる。

道(どう)は無窮(むきゅう)なり。さとりてもなお行道すべし

『正法眼蔵随聞記』

修行の彼岸に到るべしと思うことなかれ。彼岸に修行あるがゆえに。修行すれば彼岸到(ひがんとう)なり

『正法眼蔵』「仏教」巻

これらの言葉を学生たちは、真摯に受け止めている。彼らには強い職業意識が芽生え始めている。大学を出て社会人になれば、人の命を預かるという強い責任感を要求されるからである。そして、その対価として、相応の社会的地位を得ることにもなる。それゆえに、社会に出てからも地位や名誉に慢心することなく、自分を磨き、患者のために尽す気持ちを忘れないで、最新の医学知識と技術を学び続ける姿勢は何より大切であり、そうした思いが、これらの禅語に示される修行の心得と重なり合うのであろう。印象の良いレポートを書くためのテクニックとは明らかに違う率直な感想を、複数の学生が抱き吐露(とろ)してくれたことは嬉しい発見であった。

もちろん、我々が学生たちから受ける学びは、医学生からのものばかりではない。本学の学生レポートなどにも「なるほど!」と感心させられることがある。現代は複雑多様な時代である。そこに生きる人間は、老若男女を問わず、生き抜く力を与えてくれる言葉を求めているのかもしれない。だからこそ、禅の言葉に触れた時の感想にも力がこもるのであろう。彼らの発言に考えさせられるところは他にも多々あるのだが、今は「一期一会」の語を想いつつ筆を置くことにする。

(教養部教授)

愛知学院大学 フッター

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