愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  令和4年度

禅とSDGs(著・所長 岡島秀隆)

昨今「SDGs(エスディジーズ)」という言葉を頻繁に耳にする。

「持続可能な開発目標(Sustainable DevelopmentGOALS)」とは、2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された内容で、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標である。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰1人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っている。SDGsは発展途上国のみならず、先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)な目標であり、日本も積極的に取り組んでいる〔外務省 HPより〕。

私は一般教養の授業で絵本を取り扱うが、2022年9月刊行『別冊太陽』のタイトルは「地球の未来を考える 絵本で学ぶSDGs」であった。そこに紹介されている絵本のうち、手元にあったいくつかを挙げてみると、目標1の「貧困をなくそう」に関連する絵本の中には『たんじょうび』がある。赤い服を着たモジャモジャ髪の男の子が、楽しそうに自分の誕生日プレゼントに思いを巡らしている。自転車?ラジカセ?それともカメラ?

ところが、この絵本の最後には、「この子へのプレゼントは?」という問いかけの言葉とともに1枚の写真のページが収められている。そこにはカメラを睨みつける1人の黒人の男の子が写っている。誕生日の贈り物を楽しみに想像しているイラストの男の子と同じくらいの年齢である。「ゆたかな国とまずしい国」という副題のついたレイフ・クリスチャンソンとディック・ステンベリの絵本は世界の貧富の格差を思い出させてくれる。

また、ケイト・ミルナー作の『きょうはおかねがないひ』は豊かな国に潜む貧困について考えさせる。豊かとは言えない家庭環境の中で、「いつかきっと ごっこ」遊びをしながら日々を過ごす女の子は、家にお金がなくなるとママと一緒にフードバンクに出かける。あどけない娘の愛らしさが、「1人親家庭」や「フードロス」など、現代社会の抱える矛盾と貧困問題の複雑さを抉(えぐ)り出している。

目標4「質の高い教育をみんなに」に関する本の中には『ありがとう、フォルカー先生』がある。LD(学習障害)を抱えた女の子が1人の小学校教師と出会って救われる作者パトリシア・ポラッコの自叙伝(じじょでん)的作品である。字の読み書きが遅れてクラスメートにバカにされ、いじめられた少女が5年生になって新しい先生と出会い文字を読めるようになっていく。そこにはさまざまな児童をしっかりと観察し見守り続ける教師の姿が描かれている。教育力の根本は教師の人間力なのだと改めて考えさせる作品である。

『いっぽんのせんとマヌエル』の主人公は線が大好きで線にこだわる「自閉症(じへいしょう)」の男の子だ。この絵本は同じ世界に暮らしながら全く異なる見方で世界を捉えている人たちがいることをわかりやすい言葉で教えてくれる。この絵本自身がそうした気づきをもたらす教科書なのだ。そして、そこには異なる存在への理解と思いやりの気持ちへの糸口が示されている。

『みずをくむプリンセス』はアフリカの少女の話である。ジージーの日課は母と連れ立って水汲みに出かけることだ。それが1日仕事なのである。そうして得られるわずかの汚れた水が一家の命を支えている。道すがら犬と歌い草と踊り、風とかくれんぼをすることもあるけれど、毎日の水汲みは重労働である。寝る前に母さんのくれる一杯の水は美味しくて明日への気力を呼び覚ますけれど、彼女の夢は「冷たくてきれいな水がいつでも近くにあること」なのだ。これは「安全な水とトイレを世界中に」という目標を思い起こさせてくれる物語である。

ここでは、SDGsに関連した絵本の中から、読んだことのある作品のいくつかを紹介したが、こうした絵本を家庭での読み聞かせなどで使うことや教材として教育現場で取り扱う試みは有効だと思う。

ところで、こうした作品に触れるたびに思うことがある。SDGsは新規な目標ではない。これまでもさまざまな状況下で言われ続けてきた現代社会の課題である。それらが解決されず、改善の速度も上がらない現実がある。「人間は愚かな生き物なのだから仕方がない」という自虐史観(じぎゃくしかん)に陥(おちい)ることもある。憎しみの連鎖が多くの誤解と誤った判断を生んでいる。想像力と共感力の欠如(けつじょ)が新たな悲劇を生んでいる。そういう私たちにこれらの作品は何を教えているのか。そして、禅仏教はそれらをどう受け止めるべきなのか。SDGsの目標を実現するには他者を思いやる温かい気持ちが必要である。仏教ではそれを「慈悲(じひ)の精神」と呼ぶのではなかったか。そういう気持ちを持って人のためにつくす行為を「利他行(りたぎょう)」というのではなかったか。自分の欲望を制して生きることを「少欲知足(しょうよくちそく)」と呼んで貴い生き方の理想に掲げたのではなかったか。しかしそれでも、更に根源的な言葉を求めるなら、私たちには他者の立場を理解する想像力が必要なのであり、そこに至る糸口を発見するプロセスがなくてはならない。他者と真に共感するところがなくてはならないのである。そのことを「同事(どうじ)」と言ったのではなかったか。そして、そうした感情の背後には、世界の全ての事物がどこかで繋がっているという理解が存在する。仏教では種々(しゅじゅ)の要素が結合して1つのものを構成することを「衆縁和合(しゅえんわごう)」と表現しているが、そういう理屈が共感力を支えることになる。その上で、もう一度想像力を最大限に発揮して他者の暮らしぶりを、そして世界の現状を見直す必要がある。考えてみれば、この世に「他人事」など存在しないのだ。最近、自分は性悪説(せいあくせつ)に傾きがちである。何かと口実を付けて、自らも現実に目を背けているようなところがある。それでも再度これらの困難な問題意識を共有してパートナーシップを発揮して生きやすい世界の実現を願いたい。(了)

(教養部教授)

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