野家啓一先生は、大学時代にお世話になった恩師である。当時の先生は20代後半の若手講師で、年齢が近いこともあり学生には話しやすい兄貴分といった存在だった。後に先生が「物語論」について語っておられると知った。
近年、医学系大学で講義を持つ機会があり、医療倫理のテキストを読む機会があった。そこでこの物語論という言葉に再会した。医療従事者が現場で患者に寄り添う心得として、それぞれの患者の人生には、それぞれの物語があるのだから、それを理解し尊重することが、第一歩であると力説されていた。
こうした患者と医療従事者の相互交流は医師や看護師の側にも当然影響する。それは人間の出会いと交流が、個々の人間の物語に関与することを意味しており、それゆえ個々の人間の物語は交叉し交わり合って作られるのである。人間の物語は、ひとつとして同じものはないけれども、それらの物語を構成する要素に他者の働きかけが不可欠だという指摘は、意味深く面白い。
それでは、個々の人生の物語において、人間は愚かさとどう向き合うべきなのか。仏教では人間に6種の根本煩悩と20の随煩悩があるとされる。人間の複雑な相互交流がそれらの煩悩を生み出す根拠なのだから、煩悩が生ずる条件はいつでも揃っている。煩悩は人生に付きまとう。
道元禅師は次のような一文を残している。
邪狂にして身命を名利の羅刹(らせつ)にまかす、
名利は一頭の大賊なり。
・・中略・・
愛名(あいみょう)は犯禁(ぼんきん)よりもあし。
犯禁は一時の非なり、
愛名は一生の累(わずらい)なり
・・中略・・
名利をすつることは、
人天もまれなり(行持下)
それでは厄介な煩悩に振り回されないために、どのような注意が必要なのだろうか。
長谷部幽蹊先生は本学教養部にながく在籍され教鞭をとられた先輩である。中国禅を中心に研究を進められたが、教養教育にも熱心で我々にも多くの教導を与えてくださった。昨年、その先生の文章を偶然眼にして懐かしく読ませていただいた。
『仏教における心の教育の研究』の「禅における心の教育」という論文が先生の手によるもので、考察対象は『天竺國菩提達磨禅師論』である。先生は、論中で禅門学道法の各門の解説が「常由看守心」という文で始まることに着目し「清浄な自の本心を絶えず看じて守り続けようとする看守心の実践」を基本的総括的な禅の学道法と指摘される。ここで見守るべき心とは「真心」であるが、見守るべき「対象」から、常に自己心を見守る「態度」の方に強調点を移してみると、煩悩多き現代人には、自己の「看守心」を持ち続けることが肝要だと考えられるのである。
(教養部教授)