

瑩山(けいざん)禅師(1264-1325)は、曹洞宗において道元禅師(1200‐53)とともに「両祖」と称され尊崇される禅匠である。前号においては、誕生をめぐる諸問題について論じたが、今回は、前生譚、出自、幼少期の事跡について述べることとする。
前生譚
瑩山禅師が越前国(福井県)に生まれたことを前号で述べたが、前世での因縁によってそうなったことを『洞谷記(とうこくき)』では次のように述べている。
予は、毘婆戸仏(びばしぶつ)の時より、羅漢果を証す。須弥山(しゅみせん)の北、雪山(せっせん)に止住す鳩婆羅(くばら)樹神なり。頭は犬、身は鵄(とび)、腹と尾とは蛇形にて、四足の獣なり。樹神乍(ながら)に果を証して今に至る。第四尊者蘇頻陀(すひんだ)とともに北倶盧州(ほっくるしゅう)の雪山に住す。故に現在之に生ず。北国に縁有って白山の氏子なり。(原漢文)
過去世において阿羅漢果を得て、ヒマラヤの北方の雪山に,十六羅漢の第四尊者蘇頻陀とともに住んでいた鳩婆羅樹神であって、この北国との因縁によってこの地(越前)に生まれ、白山の氏子となったことを述べているのである。
この前生譚は、恐らく瑩山禅師が夢によって感得したところを述べたものであろうが、禅師は生涯の要所要所において夢によって占っており、重要な意味を含んでいることは間違いないところである。
白山は、石川県と岐阜県にまたがる霊山で、富士山、立山とともに日本三霊山の1つとされる信仰の山であり、瑩山禅師の生誕地の越前からもほど近い。白山修験の霊山として栄え、白山信仰のもととなった。日本各地にある白山神社の総本宮白山比刀iしらやまひめ)神社があり、神仏習合の霊場として知られている。各書が伝えるところでは、この神社は養老元年(717)、越前の僧・泰澄(682-767)により開かれたとされる。白山比盗_を祭神とし、その本地仏は九頭竜神(くずりゅうじん)の化身である十一面観世音菩薩、垂迹神は白山妙理大権現(はくさんみょうりだいごんげん)である。このことは、瑩山禅師の念持仏である十一面観音像や、現在でも曹洞宗で修行安居時に「奉請 龍天護法大善神 白山妙理大権現」と書した軸を掛け、修行無難・道念増長の守護神として祀ることとの関連を想起させる。いずれにしても白山山麓で生まれ育った禅師にとって白山は、聖なる霊峰であり、その氏子としての意識は自然に醸成されたものであろう。
前生潭を述べるこの一節は、重要な意味を持っているにもかかわらず、これについて触れているのは、『洞谷記』と『洞谷五祖行実』、『永光寺中興雑記』の比較的古い史料だけであり、江戸時代以降に成立したほとんどの伝記史料では述べられていない。
祖母・両親
瑩山禅師の出自ついて、『洞谷記』では、興味深い記事を載せている。祖母のついては、わずかながら記事がみられる。「円通院之縁起」には、母が生き別れとなった祖母と再会したエピソードが記されている。また、「山僧遺跡寺寺置文」では、「山中円通院は、瑩山今生の祖母、明智優婆夷の為に之れを建立する所なり。幼稚養育の恩、深きに依って、一院を立て、観音を安ず。(原漢文)」と述べ、文保2年(1318)夏末の段では「抑(そもそ)も彼の平氏の女(むすめ)は、永平和尚、建仁寺御坐の時の御弟子、明智優婆夷の再来なり。(原漢文)」としている。祖母・明智優婆夷と道元禅師の間に深いつながりがあったことが窺われるとともに、瑩山禅師は幼い頃に祖母によって養育されたことがわかる。おそらく、瑩山禅師は祖母を通じて、道元禅師との結びつきを感得していたと思われる。
瑩山禅師の父親については、よくわかっていない。『洞谷記』「山僧遺跡寺寺置文」に「加州浄住寺は、本願の素意、清浄寄進の僧所の間、素意に任せて、了閑上座が為に、修練勤行せしめよ」とあるところの「了閑上座」が父親であろうとされる。『永平伝法記』(1646)以降の伝記史料では、禅師の俗性について「藤氏」あるいは「藤原氏」と述べているが、『洞谷記』では言及がなく、『洞谷五祖行実』では、「未だ嘗て氏族を説かざるなり。(原漢文)」と伝えている。ちなみに、『常済大師全集』(1967、大本山總持寺)所収の「常済大師略伝」には、「俗姓は瓜生(うりゅう)氏、南朝の忠臣越前杣山(そまやま)の城主たる瓜生判官保卿の同族にして、其の先は藤原氏とす」と述べている。これは、武生市(現、越前市)帆山町にあった天台宗帆山寺に伝わる『観音山帆山寺本尊霊剣記』に「越前南條郡の帆山寺の境内地に、藤原朝臣の瓜生判官の子孫で瓜生長之進計寛という者がおり、妻を玉菊といった。この夫婦は子供がないことを嘆き、帆山寺中堂の本尊の千手観音を信仰し、日課として夫は毎朝千手大悲呪を二一遍、小呪を百遍ずつ真唱し、妻の玉菊もまた大悲呪三三遍ずつ唱礼恭敬すること三三度であった。(以下略)」とあり、この史料が瑩山禅師の伝記であるとされたことを根拠として述べられいるようであるが、この史料を瑩山禅師の伝記とすることは、現在、否定される傾向はある。よって、『常済大師全集』の記事の信憑性は低いと思われる。このように父親についての記述がほとんどないのは、おそらく禅師の生涯に大きな影響を与えるような人物ではなかったと考えられる。
それに対して母親については対照的で、多くの記事が散見できる
瑩山禅師の母は、法名を慧観大師という。前に述べた『洞谷記』「円通院之縁起」には、瑩山禅師の念持仏である観音像にまつわる母と祖母の再会の経緯や、禅師懐妊のエピソードなどが述べられている。母と祖母の再会については、次のようようである。
瑩山禅師が建立した永光寺の山内にある円通院の本尊は、禅師の母が、肌身はなさず「一生頂戴」し、随身した十一面観音像であり、この観音像は、禅師の母が、18歳の時、その母と生き別れとなって、7、8年の間、行方が知れず、清水寺に願をかけて7日間日参したところ、その6日目に参詣の路上で十一面観音像の欠けた頭部を見出し、これを拾いあげて、「もし願いがかなって、わが母に会えることができたならば、欠けたるところを補って、一生頂戴之本尊としたい」という祈念をしたところ、翌日、 母の行方を確かめることがでた。そこで、ただちに仏師に依頼して、十一面観音像を補修し、これを念持仏とし、懐妊後祈った。
また、瑩山禅師懐妊から出産までのエピソードにおいて、母親が37歳の時、夢に朝日の光を飲んで懐妊したこと、観音菩薩像に身ごもった子が聖人ならば、安産であるように、そうでないならば、胎内で消し去ってくれと祈ったこと、毎日観音に三千三百三十三拝(または、一千三百三十三拝)し、観音経を読誦すること7か月して産み落としたことを述べている。
禅師誕生後、母親は禅師に関わる万事においてこの観音像に祈ったようである。「円通院之縁起」では次のように述べている。
然して、予事に於いて、万事此の尊に祈誓す。所謂(いわゆる)、成人して難無く、出家学文発智、乃至、嗣法(しほう)住持し、人天を利済するまで、悉(ことごと)く皆此の尊に祈念す。剰(あまつさ)へ予若年の時、瞋恚(しんい)人に過ぎて徒(いたずらなる)べきが如し。故に悲母、又、是の尊に祈誓して云く、彼の僧、縦(たと)い利根聡敏にして智恵抜群なりと雖も、此の如く瞋恚増盛ならば、人天の為に益あるべからず。大悲願わくは加被力(かひりき)を以て瞋恚を止めしめ給えと、之を祈る。予18歳の冬より、道心を発し、19歳の秋、殊に発心して道を求む。維那(いの)に充てられて寺務抜群なり。人人悉く随喜す。然るに、人有り、予を悪口す。瞋恚増発して大罪を犯さんと之れを企つ。時に翻悔して思念す。予 幼歳より抜群出身す。今、発心して職に充てらる、望む所は仏法統領して人天を化導せん、是れ大願なり。若し悪事を作さば、此の身閑(いたずら)なるべし、今より以後、瞋恚を発さず、と。自然に慈悲柔和にして今大善知識と為る。是れ併せて悲母の祈念力なり。(原漢文)
このように、若年の頃から癇癪持ちであった禅師が、自然に慈悲にみちて柔和になれたのは、悲母の祈念の力であると述べている。その母は、禅師51歳の時、87歳で亡くなった。
幼少期
瑩山禅師の幼名は行生(ぎょうしょう)とされる。最古の伝記資料『洞谷記』(大乘寺古本)では、「安安として産所に行く路にて之れを生む際あいだ、行生と名づく(原漢文)」と述べているが、それ以降の諸伝にはそれを述べていない。しかしながら、現在の曹洞宗では行生という幼名が認知されている。
幼少期の行状については、江戸期までに成立した諸伝には詳しいことは記されていない。『洞谷記』では先に述べたように「円通院之縁起」にわずかな記事があるのみである。その中で、禅師は若年の頃から、聡明鋭敏で智恵が抜きん出ていたが、人並み外れて癇癪持ちで、周囲ももてあますほどであったこと、母が心配して観音菩薩に、禅師の怒りの心を鎮めて欲しいと祈ったことなどが述べられている。江戸期までに成立した他の諸伝もこれを出るものはなく、ほぼ内容は一致している。
明治期になるとにわかに詳細な記事が登場する。瀧谷琢宗(たきやたくしゅう)『總持開山太祖略伝』(明治12年)には、江戸期までの伝記を基にそれを増広し、具体的な行状を加えている。例えば、3歳のこととして「時々は掌を合わせ南無々々と唱へつゝ、三宝を礼するの姿自然そなはりて」と観音像に向かって合掌して南無南無と唱えていたことを記し、5歳のこととして「平生の遊戯にも石を積て宝塔に比し、或は土を団めて仏像に擬し、又よく母に順ふて普門品を誦するなど、自ら仏事をなすをこよなき楽みとなし」とし、幼いころから仏教に親しんでいた様子を述べている。また、6歳のこととして「一時母に順ふて観音の聖像を礼拝し、熟々菩薩の相好端厳微妙なるを仰ぎ見たまひ。突然母に問ひ尋ぬるやう、此菩薩は何処に住し、何なる業を作し何等の功徳ましましてか、斯く庶人の崇敬を受けたまふや。菩薩も亦人なりや、将た人にはましまさずやと。」という観音菩薩に関する母への問いなど、それまでにないエピソードを載せている。私は幼少の頃、『總持寺の瑩山さま』(昭和42年、大本山總持寺)というマンガに親しんでいたが、その中にこれらのエピソードが載せられていたのを記憶している。このことからも、『總持開山太祖略伝』が明治期以降の瑩山伝のスタンダードとなっていたと考えられるが、これらのエピソードの元となる史料が何であるかが全く不明であり、はなはだ創作に満ちたものと言えるのではないか。
(教養部教授)